市村三兄弟

平成28年10月1日~11月27日、長野県飯田市美術博物館で開かれた「日本の近代化に挑んだ人びと」展。飯田出身で、日本の博物館、図書館、博覧会、動物園の創設に深く関わり、日本の近代化に大きな貢献をした田中芳男さんの没後100年記念として、南信州にゆかりある人々四十余名を紹介した展覧会でした。菱田春草、日夏耿之介、柳田国男、椋鳩十など、いろいろな分野の郷土の偉人たちを紹介する、という内容でした。これはチケットの半券です。右列の真ん中が繁俊、中央列の下段が繁俊の長兄、市村咸人さんです。

こちらは図録の表紙です。なぜか繁俊だけ写真が差し変っていますが、図録の写真は、登志夫の妻良子提供です。たしかに、提供写真のほうが、とてもよい笑顔です。

繁俊は、「江戸の歌舞伎作者」の後を継ぐことになりましたが、もともとは長野県飯田の出身です。早稲田大学に入るまでは家族と飯田で暮らしました。こちらは兄弟がそろった写真です。昭和15年、国を挙げて「紀元2600年」を祝った時、皇居に三兄弟が招かれた日、繁俊の成城の自宅で撮影したものです。左から、繁俊の妻みつ、52歳の繁俊、繁俊の長女、繁俊のひとまわり年上の長兄・市村咸人、繁俊の長男・15歳の俊雄(登志夫の本名)、繁俊の8歳年上の次兄・市村与市です。繁俊の年譜には、「11月、皇居前広場に催された紀元二千六百年奉祝式典に、長兄・次兄と共に参列」と書かれています。

この兄弟の家は、中くらいの農家でしたが、五人の兄弟のうち(男四人、女ひとり)、三人が「日本の近代化に貢献」したと評価されるような人物になったのはすごいことです。

図録では、長兄は「南信州の実証的歴史研究の巨人」、次兄は「キリスト教教育の功労者」、繁俊には「日本演劇学の巨匠」とキャッチコピーがつけられています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)