黙阿弥とネズミ①
黙阿弥は文化十三丙子年(1816)生まれでした。
それから105年後、干支が9回めぐった大正13年(1924)に登志夫が生れます。ともに子年。
黙阿弥の家は動物好きで猫をはじめ、犬もいましたが、鼠も可愛がりました。以下は、黙阿弥の長女で河竹の家を継承し、繁俊を養子にした糸による鼠に関するお話しです。(繁俊著「河竹黙阿弥」より)
父(黙阿弥)は子の年でしたから、鼠は家内中のものが愛していました。猫にも同じ朋輩同志だから、取ったり追っかけたりしてはいけないと、よく言い聞かせておきましたから、猫のお椀の御飯粒を鼠が食べていても追おうとはしませんでした。鼠には餌として普通の御飯をお盆へ盛って、毎晩十時頃に鍋棚へ上げてやりました。棚の上の壁には三四箇所も穴が開けてあって、そこから頭をちょこちょこ出していました。十時前にがたがたと騒ぎでもしますと、『未だ早いよ』と言いますと、ぴたりと静まっておとなしく待っていました。父は鼠が餌を喰べてる所を見て悦んでいました。親しい客でも来ますと、『頼豪阿闍梨を一つ御覧に入れましょう』と言いながら、手燭をつけて案内して見せました、が鼠も慣れているので、別に逃げて行きもしませんでした。(②へ続く)
頼豪阿闍梨というのは、曲亭馬琴が実在した僧侶頼豪の伝説をもとに描いた読本「頼豪阿闍梨恠鼠伝」のことで、様々な鼠の妖怪が登場するものです。
黙阿弥が鼠に餌を用意したわけではないでしょうから、糸さんや女中さんなどが実際は世話をしていたことでしょう。こういうことを、江戸の人たちは普通にやっていたのでしょうか。「朋輩同志」の猫と鼠、まだ早いと注意するとそれをちゃんと聞き分ける鼠、、、。なんだか落語や子供向けの絵本かなにかの話のようです。ちなみに、登志夫も子年でしたが、登志夫の家族は鼠を愛することはできませんでした。
下の写真は、黙阿弥の長女糸さん。繁俊が黙阿弥家に養子として入って真っ先に書き上げた「河竹黙阿弥」伝には、糸さんや門弟たちから聞いたこのようなエピソードが多数あり、どれも黙阿弥の人間的な部分が描かれ興味深いです。
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