登志夫撰文・玄冶店碑③/黙阿弥と如皐
この絵は、時代を下って九代目團十郎の与三郎です(国周画・国会図書館所蔵)。初演したのは八代目で、いまも如皐の作品で一番上演される演目です。如皐の活躍に引き替え、黙阿弥は新作を書かせてもらうことすら、なかなかできない状況にいました。登志夫著「黙阿弥」引用の続きです。
「心の中を人に語れない性質の黙阿弥は、ひとり悩み、耐え、いつかはきっとーと自分にいいきかせながら、暗い夜道を足音しのばせて、地内の家へ戻るのだった。
しかし、そのいつかはという時は、意外にはやくやってきた。「佐倉義民伝」と「切られ与三」のあと、如皐はふるわず、小團次との縁もふっつりと切れるからである。
作品そのものにも、欠陥はあった。看板下絵も細密で色まで塗らなければ気がすまず、ト書舞台書も精細をきわめる丹念さが、狂言を冗長にしたのだ。(略)
だがあの時代に、暴動の引き金にもなりかねない“危険思想“を孕む「佐倉義民伝」を敢然と描き切り、「切られ与三」では黙阿弥に先んじて七五調の世界を開拓した力量は、凡庸ではない。(略)
それなのに如皐が疎外され、凋落の一途をたどるのは、あまりの潔癖さ頑固さ、癇癪のつよさのためだった。(略)
いつから不和になったかはわからない。が、「切られ与三」の半年後、嘉永6年9月の「花野嵯峨猫魎稿(はなのさがねこまたぞうし)」(佐賀の猫騒動)が、有馬家の横槍で上演を禁じられている。
その後ぱったりと小團次のための筆を絶つので、この事件をめぐり悶着が生じたものか。とすればまたも公権力の理不尽か、はたまた化猫のたたりか。
いずれにせよ直因が、似たもの同士の衝突だったことはまちがいない。」
この「猫騒動」の翌年、1854(安政元)年3月、小團次は中村座から黙阿弥の出勤する河原崎座に座頭格で移ります。ここから黙阿弥と小團次との関係が始まりました。最初からうまくいったわけではありませんでした。しかしピンチをチャンスに変え、固い信頼関係を築いていくことになります。登志夫著「黙阿弥」からのご紹介でした。
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