登志夫撰文・玄冶店碑②黙阿弥と如皐

「与話情浮名横櫛」の玄冶店は、実際の日本橋玄冶店ではなく、鎌倉雪の下の源氏店として描かれています。江戸時代には、実際の出来事をそのままそれとわかるように芝居にしてはだめ、という決まりがあったため、江戸時代の出来事を鎌倉時代や足利時代に置き換えたり、土地の名前や人物の名前を変えたりしながら、それとわかるように芝居にしました。この絵は、芳年のものですが、玄治店、と書かれています。泉町は、新和泉町で、玄冶店のあった町名です。

与三郎と蝙蝠安が、玄関先で首尾を話し合っているところです。

さて、作者の瀬川如皐と黙阿弥は10歳如皐が年上でしたが、小團次と組んでヒット作を出したのは如皐が先でした。登志夫著の「黙阿弥」には、黙阿弥と如皐のこと、この作品のことが書かれていますので、引用します。

「河原崎座の座元権之助は保守的で、黙阿弥に新作を書かせてくれない。が、中村座では座元勘三郎が座附の瀬川如皐(三代目)に、小團次のために新作をどんどん書かせる。そこに大きな開きが生じた。

 まず「釜煎りの五右衛門」が、七十八日間続演という大記録を立てた。宙乗りの葛籠が割れて五右衛門が現われるー上方仕込みの小團次の泥くさい演出が、またも江戸っ子をアッといわせたのだ。河原崎座は寂として声もない。

 つづいて半年後、如皐と小團次のコンビはさらに不朽の名作を生む。「東山桜荘子」すなわち「佐倉義民伝」である。(略)

 物語が小説や講釈で人気高かったこともある。が、こんどはケレンでなく、小團次の迫真の写実芸が見物の胸を打ち、三か月百四日を打ちつづけた。如皐の名は上がった。

 如皐は黙阿弥より十歳年上だが、作者になったのはおそい。その如皐に先を越されて、黙阿弥ははじめて言い知れぬ屈辱感におそわれた。(略)

 黙阿弥は焦り、悩んだ。その懊悩に追討ちをかけたのは、八代目團十郎が演じた如皐作「与話情浮名横櫛」の好評だった。いまも世話物の名作とされる「切られ与三」である。

「しがねえ恋の情が仇ー」ではじまる七五調の名せりふ。

 如皐の名はますます高まり、黙阿弥の失意はその極に達した。大川にうつる灯影がふと精霊の火にみえて、いっそ身を投げようかと橋の上を行きつ戻りつする夜もあった(略)」


「与話情浮名横櫛」ヒットは黙阿弥38歳、如皐が48歳の時のことでした。

このあとは③に続きます。

 

 

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)