「五十の浪」③奇跡の浴衣
「五十の浪」①に記しましたが、明治17年、黙阿弥が父勘兵衛の五十回忌法要の配りものに、柴田是真の下絵の浴衣を染めさせました。染めたのは、堀田原の竺仙という有名な染物屋。(現在日本橋小舟町にある同名のお店との関係はありません。)彼は「通人」で、黙阿弥とは親友でした。本名は金屋仙之助といいましたが、背が低いので竺々と呼ばれていたことから、竺仙と名のったそうです。
この浴衣、五十回忌のあと、門弟に配ったりして散逸してしまい、一反だけ残っていたのを、黙阿弥の長女・糸が養嗣子の繁俊のために仕立てておいたのです。
大正12年9月1日の関東大震災の折、大揺れの最中、何も手を着けられないでいると、書生の倉沢興世(のちに帝展無鑑査になった繁俊と同郷の彫刻家)が、繁俊に「先生、私は何をしましょうか」と聞きました。繁俊は、「こんなにひどくてはどうしょうもない。これを外に運び出そうか」と言って、屋敷内のコンクリートの万年塀を背に、ひと棹の箪笥を運んだのです。しばらくすると、方々から火の手があがったので、繁俊は糸を背に、妻みつは乳飲み子を抱え、一家は途中からばらばらに本所から越中島、月島方面へと逃げました。このあとの悲惨な避難の顛末は、繁俊が書き残していますので、別の機会に紹介します。
3日後、自分以外の家族の消息がわからないまま、繁俊が命からがら本所の家に戻ると、焼け跡の中に、火の粉がくすぶった箪笥が塀にべたっとついて立っていました。中身はだめだろうと開けてみると、夏のことゆえ、糸の仕立てていた浴衣が入っていたのです。こうして、奇跡的にこの「五十の浪」の浴衣は焼失をまぬかれました。大正14年「黙阿弥全集」首巻刊行の際、一千部に限り、この浴衣をそのまま印刷した表紙を用いた特製本として世に出したのです。
写真は、現在は早大演劇博物館に寄贈されている焼け残った箪笥。その他には、黙阿弥の丹後縞の夏羽織、薩摩上布の単衣、渡りもののセルの単衣、英国製八角時計などが入っていました。この箪笥は繁俊が河竹家に養子に入る時、生家の兄が贈ってくれたものです。
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