切抜帳25より②/雑誌など
1992年6月25日号「アサヒグラフ別冊」は井伏鱒二の世界。ここに「私の会った井伏さん」。井伏鱒二はこの翌年の7月に亡くなっているので、この時はまだご健在だったということになります。登志夫が井伏氏に会った夜のこと。普通何か書いてもらうなら井伏氏の著書を持参しそうなものですが、登志夫は自著「作者の家」に井伏氏のお名前と一言を書いてもらいました。「作者の家」の登志夫の文章を、井伏氏が周囲の人に褒めて話してくださっていたのを聞いており、嬉しく思っていたからでしょう。
同年7月号「歴史街道(PHP)」に5ページにわたり、「名作者・河竹黙阿弥の『三親切』」。
1993年新春号「ポワル」という媒体に趣味の包丁のことで登場。自宅での撮影ではないので、このたくさんの包丁や砥石、事前に送ったものか?
同年2月号「銀座百点」。前年末に開催の恒例百点句会。この年はうしろから4番目の点数だったようで…。
同じ「銀座百点」の4月1日号には戸板康二氏への追悼文「ほどよき人」。「百点句会」でも、そのあとの初芝居でもご一緒していたのに、と書いています。
「DRESSTUDY」(服飾研究)という媒体に、「花の巴里の貞奴」。
明治半ばの巴里はじめ、世界で川上貞奴が人気を博し、衣裳や芸能なども世界に知られることになりました。その経緯と功績について、興味深く解説しています。
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