切抜帳22より⑤/神奈川新聞連載「週言」1月~7月

1990年、神奈川新聞の「週言」欄に一年間の連載が始まりました。5人の執筆者が月一回担当。有隣堂の社長さんや横浜美術館の館長、作家や音楽家など、さまざまな5人がちょっと当時の世相などへの気持ちを含めてエッセイを書く、という欄のようです。当時はばっちり住所まで記載されています。

一回目は1月15日に「衣食足りすぎて」。成人の日にあたっての感慨。自身の時には成人の日などはなく、徴兵検査がそれに当たったとのこと。そして今から80年前の終戦の詔勅を聞いた日のこと。娘たちは、ほかのうちの父親よりもずいぶん年上の父親だったので、戦前戦中戦後の貧しい時代の話を同年代の友人たちよりもずっと身近に聞く機会がありました。全員だいぶ貧乏性なのはそのせいもあるような気がしてなりません。

二回目は2月19日「夢よもう一度」というタイトルで、仕事で先日亡くなった藤村志保さんと食べ物の仕事で金沢に行った後、ひとり永平寺を旅した時のこと。やはりここにも戦前戦後のお話が。

三回目は3月26日「歌舞伎の『性根』」。東京会館で開催された「五世歌右衛門を偲ぶ会」で見た五世歌右衛門の素顔の映像のこと。七世芝翫さんが語る祖父のこと。この折り目正しい気品ある芝翫さんから、二十年以上前になりますが、「あなたは若いのになかなか箸の持ち方がきれいだね」と言ってもらったのが、登志夫の次女は少し自慢です。数回、雅子奥様もご一緒に、親しい記者さんとのお食事の会に加えていただいたことがありました。

四回目は4月30日「一粒の真珠のように」。視覚障害者のために本を朗読する方々について。自身の著書「日本のハムレット」が録音された際、はじめてこのボランティア活動について知り、大変感心したというお話。

五回目は「高峰三枝子さん」。登志夫が亡くなる直前、病床でYouTubeにある戦前戦後の歌を聞かせましたが、「湖畔の宿」は登志夫のリクエストのひとつでした。そのほか、「唄入り観音経」や李香蘭の歌も再生したおぼえがあります。とても寂しいメロディなので、登志夫が亡くなったあともなんだかこの曲がよみがえり、感傷的に感じたものです。

六回目は「人もカエルも」。最近騒ぎにはなっていませんが、確かにこのころ「酸性雨」がとてもおそろしいものだと問題になっていました。この文章の最後、いい締めくくり方だと思います。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)