切抜帳19より③/随筆的寄稿
1986年9月「オペレッタ通信」13号。日本のオペレッタの第一人者で、宇野信夫に師事し、宇野信夫作品の歌舞伎座上演の時には演出をしばしば努めた寺崎裕則さんは登志夫夫婦と親しくしていました。一昨年亡くなられましたが、本当に楽しい方でした。登志夫はよくオペレッタ関係の媒体にも寄稿しました。ここには、オペレッタの街ウィーンのこと、ウィーンのワインのこと、娘たちとウィーンで行った近所のレストランのことなど。この酒場レストランにはけっこう頻繁に晩御飯を食べに行きました。娘たちもヌードル入りスープや、ロティサリーチキン(トリの丸焼き)などの味、よくおぼえています。登志夫はいつもデキャンタの白ワインを注文しました。薄暗い小さな店の家庭的な雰囲気も忘れられません。
同年10月「国立能楽堂」[第38号。「金色の眼」。能面と歌舞伎化粧について講演した話。
1987年5月「道路」に「たこやき始末記」。指にできたのが「包丁ダコ」か、講演の時に黒御簾音楽の太鼓を打つ真似をしてできた「講演ダコ」なのか、そしてイボを焼いた話など。。
同年10月30日号「さいころじすと」に「演劇学と心理学」。登志夫が中国に滞在していた時期に書いたもの。海外公演に多数回随行して現地でアンケート調査に努力したものの、それを集計して分析して、その後にいかせるような形にすることは、帰国してひとりでできるものではなく、そのうち結果が古くなってしまったり、アンケ―トというのはなかなか厄介なものです。そのあたりのことについて、理数系の登志夫ならではの考え。
同年12月号「ポスト」。「ゆうせいずいそう」という欄に、「演劇と手紙」。歌舞伎、シェイクスピア劇での手紙の役割のことを挙げ、自分も大事な手紙はコピーをとって投函するとしめくくっています。慎重な登志夫、結婚前に良子に出したラブレターは、コピーのない時代、なんと自ら手書きで写しをとっていたとか。。。さすがです(笑)。
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