切抜帳18より③/その他

大蔵省広報「ファイナンス」誌、1985年9月号に、「ハチの標本」。登志夫14歳の夏休みの宿題は昆虫採集。驚くのは、父兄の承諾書が必要とはいえ、虫を殺すために青酸カリを使用していたということ。。登志夫はハチを集めて提出し、よい出来だったので成城学園の生物資料室に召し上げられ、それはその後、教室ごと空襲で焼けてしまったというお話です。

同年10月3日号「TakihiNoh in HibiyaCity」プログラム。このイベントの詳細はわかりませんが、登志夫は「はじめて見た薪能」の思い出を寄せています。

同年1月、国際演劇協会会報に「キンダーマン氏を悼む」。

同年10月「きもの文化通信」創刊号。セイコきもの文化財団創立記念講座「パリの貞奴・その衣裳」。鈴乃屋さんという着物のお店の財団で、現在も続いているようです。川上貞奴がパリで大活躍するに至った経緯や功績について。着物会社主催の講演ですので、女性のお客さんに向けて、貞奴をテーマにしています。

こちらも同上の紙面。歌舞伎と当時の庶民の流行との関係について。1985年10月13日、セイコきもの財団と歌舞伎座との共催で「きもので歌舞伎を楽しむ日」というイベントを行いました。そういえば先日、先月、歌舞伎座でも同じイベントを行って、賑やかだったそうです。

1986年3月「教育月報」に、「子供歌舞伎教室三十四年」(神奈川県教育庁発行)。昭和27年から都民劇場が主体となって行われていた子供歌舞伎教室。繁俊も登志夫も、芝居前の解説を長く担っていました。この教室、当月興行の昼の部が始まる前に、当月の舞台から一つを若手を配役し、役者さんの勉強にもなり、またスタッフも本来の製作者ではなく、歌舞伎座監事室のスタッフが受け持つという目的もありました。当時三之助と呼ばれていた今の松緑、團十郎、菊之助が三人で『勧進帳』をやったこともありました。現在では本当に不定期になってしまいましたが、今後またやることがあるのでしょうか。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)