敗戦後拾遺②消えた鉄塔

敗戦7年後の繁俊の随筆です。

消えた鉄塔 

 「戦後になって、いつの間にか消えてしまったのだが、私は不思議な鉄塔のことが忘れられない。その鉄塔が、アメリカ本土へ大きな風船を飛ばすためだった事は、つい昨年の夏になって知った。

  はっきりとその年月は覚えていない。しかし、太平洋戦争に突入したのは、昭和16年の末だから、鉄塔の作られたのは17年秋あたりのことだった。私の住んでている東京郊外の成城町の丘から、南西5キロほどの低地を隔てて、多摩の横山と万葉集の歌にうたわれている一連の丘がある。多分この3キロの低地は多摩川の流れだったものであろう。今の多摩川は、多摩の横山の下を流れているのだが、私の住まっている丘の下はいっぱいの丸石だから、こっち側を流れていたこともあるのだろう。  

 その対岸の丘に、向ヶ丘遊園地と言うものができている。東京の新宿と小田原箱根間を結ぶ電車の小田急会社が経営して、多摩の横山の一部が遊園地化されて、野球場その他の設備も山の上にある。  

 それとあまり離れていないところに桝形城址と呼ばれる相当の広場がある。鉄塔はそこに建てられたのだ。むろん三角形に組み上げた鉄塔なのである。私の庭からはすぐ目の前なので、オヤ、妙な所へ妙なものが立ち始めたなと思っている間に、メキメキと高いものがそびえてしまった。しかもそれがたった1本きりでめっほう高いのである。目測の事だから怪しいが、どうしても200メートル以上のものだった。

  はて、なんだろうー?見るたびに気になった。1本きりだから送電の電線を張るためではない。アンテナを張るためなら少なくも2本はなければなるまい。と見ているうちに、バラックがその鉄塔を取り巻いて、ぐんぐんとできた。しかし時折人に聞いてみても、誰も説明してくれなかった。軍事用のものであろうとは、バラックが立て始められてから想像したのだが。 

  ところが、そのうちに、サイパンが奪取されてからB29がやってくるようになった。素人目にもあれだけ高いものだと、目標になるのではなかろうかと、取り越し苦労をしていると、2 、3日のうちに、その鉄塔が下のほうの約5分の1位を残しただけで、取り壊されてしまった。いよいよわからなくなった。やはり目標にされないように切り取ったものだろうとは想像されても、一体何の用に作ったものかは、とんとわからないままでた終戦を迎えた。  

 終戦の後にも2年位は、下の部分だけは残っていた。なんだか、敗戦の姿を見せられているようで、気になってしようがなかった。しかし、3年も経ったある日、ふと気がついてみると、きれいになくなっている。それは鉄材が非常に高価になったからだと、これは察しがついた。 そしてその鉄塔のあったあたりのバラックは、明治大学が買い取って校舎にしたということを聞いてからまもなく、明大の当事者に逢ったときにその話を出した。すると鉄塔の意味がわかった。

  あの当時噂に聞いた紙風船の大きいのに、爆薬を装置してアメリカ本土に飛ばした話。その紙だか布だかをつなぐには、コンニャク玉から製した糊に限るのだの、風船を作るには、国技館で勤労女子学生がこれにあたったというような話。デマだか眞相だかは今もって知らないが、アメリカやカナダにはかなり落ちて多少の効果を上げたとか。その風船を飛ばすための鉄塔とあればうなずける。多分夜半にやったのであろう。 

  バラックの下には、いくつもの地下道があって、まだ全部の探検ができていないと、明大の当事者が言っていた。(山陽新聞、27年9月)   

昭和24年改修が終わった演劇博物館の歩廊にて。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)