敗戦後拾遺①太平洋戦争と歌舞伎の検閲
繁俊の空襲日記は前回で終わり、数ページあけて、マ司令部の歌舞伎検閲についての折衝のメモとなります。 が、その前に、戦中の日本の芸能への検閲の凄さを繁俊著「日本演劇文化史話」(新樹社・前出)で見てみます。
「〈敗戦前〉もっとも著しいものは昭和15年8月15日に左翼演劇団体と目されていた、新協、新築地の二劇団が政府から解散を命令されたことであった。 しかも一方では、その年の10月12日には大政翼賛会なるものが組織され、11月10日には紀元2600年の式典が皇居前広場に展開された。
この昭和15年から終戦〈敗戦〉に至る5年間は情報局が強力な統制力を発揮し、芸能全体も戦時体制に突入させられた。 国民の大部分もその意をむかえて、忠君愛国、戦意高揚、挙国一致に参加したのであった。 演劇も、国民演劇時代とも称すべき時代だった。
歌舞伎や文楽のように封建社会道徳に育成されたものも、特に「忠臣蔵」とか「寺子屋」とかいうような、封建的忠誠を発揮したものを上演し、文楽の人形浄瑠璃もまた「肉弾三勇士」の如きを上演したのであった。(略)
昭和16年以後には、脚本の事前検閲や国民演劇選奨制度さえ設けられ、歌舞伎、新劇団関係の人たちも農山漁村、戦地などの慰問演劇、移動演劇に動員されたのであった。
昭和19年2月25日に発布された「決戦非常措置要項」により3月5日から19の大劇場が閉鎖され、しかも入場税を10割にして最高5円の入場料と制限された。 4月には密集地帯の疎開が強行され、東京大阪などで36の映画館も閉鎖された。そうして「興行刷新実施要項」を発令して、興行時間その他に制限を行った。
劇場、映画館は次々に空襲で焼亡し、まったく芸能文化にたいする一種の暗黒時代、恐怖時代を現出した観があった。
〈戦後の動向〉
かくて、昭和20年8月15日に終戦を迎えた。そしてすべてはアメリカ軍を主とした連合軍の占領下にはいった。私は専門家ではないが、正確に言えば、それは昭和20年の9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した時から、昭和26年9月8日にサンフランシスコで対日講和条約に調印されたまでの期間だといってよいであろう。しかし、歌舞伎にたいする進駐軍による統制、もしくは追放-あるいは興行演目の停止は、昭和20年の11月の「寺子屋」によって開始されたが、満2年後の22年11月「忠臣蔵」の上演解除とともに、歌舞伎も文楽も全面的に解放されたのである。だから戦後にも2年間の弾圧の悪夢と憂鬱とがあったことになる……」
以下は、昭和20年10月ごろから始まった繁俊の司令部との折衝のメモより。
○日本の検閲制度は全面的に廃止され、直接司令部が検閲することとなり、ボラフ大尉と、時々ーー二面栄屋ーーにて懇談をした。
☆註/ボラフ大尉は司令部の検閲課演劇係の係長。昭和21年1月中旬まで。 彼は「歌舞伎細見」を検討していて、検察側的な態度が少しもなく、むしろ紳士的な態度で懇切丁寧で、繁俊は好感を持った。
○11月4日より東京劇場にて、吉右衛門一座の「寺子屋」その他を上演した。この時我々は心配したが、検閲課に行って許可を取りしと言うので、試金石として眺めていた。
○ と、10日ごろにボラフ来観、14日になりて5日間の余裕を与えての上演禁止の命令あり。新聞等には発表されず自粛と言う形がとられた。 これは「あのような封建的忠誠の芝居は如何」という投書をせし日本人が多数ありて、禁止になりしと言う。 敗戦によって反動的に、封建道徳への呪詛が盛んだったことも、投書の理由であったろう。
○これはいけないものをごまかして、上演しようとしたものと思われて、司令部の心證を害せしと言う。
○このことがあってまもなく、11月20日頃のものと思わる、次のごとき命令書を受けた。 3項目13ケ条(略)にわたる手厳しいもので、歌舞伎や文楽、どの作品をとってみても、ことごとく上演不可能と考えなくてはならない……
○12月3日になり、本日(4日)午後1時半進駐軍の司令部に来てくれとのこと。
○ちょっと考えたが「寺子屋」のこともあったし気になったので行く。
☆註/とメモは続き、歌舞伎にとっては日本の検閲が解かれたと思った途端に、一難去ってまた一難、今度はGHQの弾圧、、関係者や繁俊等の悪夢と憂鬱が始まります。 解除までの経緯のメモはまた改めて次の機会にあげようと思っています。
ボラフ大尉の後任キース中尉は強硬派。その後任が歌舞伎追放解除に尽力してくれたフォービオン・バワーズ氏(中央の人)。後列右から2番目が繁俊。氏が研究のためたびたび訪れた演劇博物館の前で館員たちと。(昭和23年5月撮影)
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