繁俊の日記から⑪/太平洋戦争敗戦直後/昭和20年9月の記録

☆註 9月2日米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印


 ○朝7時20分ごろに出て芝明舟町の川尻氏方へ行く、米兵が大使館前に列んでおり、トラックがたくさんにあった。溜池の辺りは電車を止めていた。

 ☆註 マッカーサー元帥が、横浜からジープで初の東京入りをし、アメリカ大使館に星条旗が掲げられ、占領軍の進駐式が行われた。

 #(進駐軍が)早大、帝大にも検分に来た。帝大を使う様子。 

 #横浜にてダンサーを募集したところ、200人の所へ2000人ありし由 #厚木の特殊従業婦、米兵酔ってきて乱暴を働き、それを怖がって逃げて機嫌を悪くせし由。

 #通訳も女の方を喜ぶ由なり。

 #東京には27,000人、将校2,000人、将官100数十人の由、9,000人分の病院を要求せし由、

 #何でも記念品と言って持ちゆく由、 

 ○個人の邸宅をだいぶ借りるらしい。日本の憲兵がこれをいちいち当たりて契約をするものらしい。 ☆註 GHQ、9月19日に「日本新聞遵則」を発出、進駐軍に対し不審を招くような記事を掲載しないことなど、10項目を定めた。

 ☆註9月27日 天皇、マッカーサーを訪問 昭和天皇・マッカーサー会見

☆註 この日、進駐米軍の婦女暴行などを批判した、東洋経済新報9月29日号が押収され、9日には、新聞事前検閲が始まった。

 ○新聞には出ぬようになったが、米兵の乱暴は相当のものの由。

 ○夜の8時ごろに、増上寺そばの暗闇のところで、2人の米兵が都電に立ちふさがって止めた。そうして、車内に入り来たり、ピストルを出して、乗客全部の金をとって逃げた。

 ○チョコレートの箱を出して50円で買えと言いし由、 

 ○腕時計を欲しがってとられた人は大分ある。横浜にてある男、2人の米兵に捕まる。腕時計を見て売れと言う、言葉通ぜぬよりて、いやいやをする、1人がポケットより100円札を出して見せる、いやいや、また1枚出す、また1枚出したが、いやいやと言う、他の1人ピストルを出す。青くなりしところ、実はこれと交換せよと言うのであったが、とうとう逃げてきたとの話。

 ○マ司令部(☆マッカーサー)は、政治経済に対し、まず種々の指令を試みた。文化面に対しては、抽象的なものであった。

 ○ その中、9月22日に映画制作者に対して覚書を交付した。それは映画が、演劇よりも社会的に密接なるが故に、まず出たものと思わる。

 ○日本の検閲制度は全面的に廃止された。

 ☆註 終戦直後、下村定陸軍大臣が「軍人軍属に告ぐ」の放送を何度もして、軍部の内部に残る徹底抗戦の力を収めようとしたが、国民側には軍部、特に陸軍を糾弾する空気が強かった。 11月28日帝国議会で斉藤隆夫議員より軍国主義が発達した理由について問われて下村定は最後の陸軍大臣として答弁した。 「いわゆる軍国主義の発生については、陸軍内の軍人としての正しい物の考え方を誤ったこと、特に指導の地位にあったもののやり方が悪かったことが根本であると信じる。あるものは軍の力を背景とし、あるものは勢いに乗じて、独占的な横暴な措置を取ったものがあると信じます。ことに許すべからざる事は、軍の不当な政治干渉であります。かようなことが重大な原因となりまして、今回の如き悲痛な状態を、国家にもたらしました事は、なんとも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に、衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体をいたします。 この陸軍の過去における罪悪のために、ただ今斉藤くんのご質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深き御同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします。」(要約)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)