繁俊の日記から⑨/太平洋戦争最後の半年/昭和20年8月前半の記録
☆註 7月22日から8月9日までの18日間は日記の記載がありません。著作等に当たってみましたが、この間の動静はわかりません。本土決戦を見込んで要塞化された、地下壕の上の自宅を軍の宿舎にする準備や、爆撃された演劇博物館の改修などに忙殺されたのかもしれません。そして、家は陸軍に明け渡し、ともかく8月9日には長野県下伊那郡山本村の兄の家に疎開しています。
☆註 8月 1日/新潟、長岡空襲死者1488人、富山大空襲死者2275人(地方都市最大規模)
5日/群馬前橋、高崎空襲死者1323人
☆註 6日/広島原爆投下死者140,000人
7日/愛知、豊川空襲死者2477人
8日/福岡、八幡大空襲死者2952人
☆註 8日/ ソ連、対日宣戦布告
8月9日
中央線は八王子付近やられしため、2日以来不通で5日か6日まで行けなかった模様。ところが5日に付近のトンネル際にて機関車がやられ、40数人とかの死者ありしとの事。
☆註 8月5日/中央線湯の花トンネル入口付近でP51戦闘機複数機が、満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を行った。死者50名、負傷者130名以上。
☆註 8月9日/ソ連満州への進攻、長崎市への原爆投下死者70,00人。
☆註 8月9日/ソ連満州への進攻、長崎市への原爆投下死者70,00人。
○富山市の爆撃(☆8月1日)は甚しかりし様、そのため下伊那に入る米来ず、また1割の供出米が決定される由。
○これらのためか、上伊那町農学校に通う保人長男、栄人も寄宿舎の食料事情のため、自宅より通学せよとの命令出し由。
○この辺にて小麦600円、米1000円、大麦500円とあり(いずれも1俵)、ジャガイモは一貫め10円、玉子1個1円20銭とて東京とさしたる変わりなし。
☆註 9日/岩手釜石艦砲射撃、死者300人以上
8月10日
朝、さき子さん牛乳取りに別家に行ってくれての帰りの話に、ソ連が越境して満州国に戦車を入れし由、また今朝のニュースにては、金沢にどこの国のとも不明の飛行機来たりし由、いよいよソ連の干渉と見ゆ。ーー大詰めにせまりしの感強し。
○午前9時半ごろに警報出て、まもなく爆撃の音。
○続いて10機位づつ10回ほども、相当の爆撃と見ゆ、ーー諏訪、岡谷または松本地方か。
○兄が11時ごろ役場より帰りての話にて、今、上飯田の小学校が焼けている、爆撃なる由を言う。しかしそれには音が遠く、また空襲警報にならないので違うのではないかと申す。
○8月8日来診してくれし小松氏の話にては、8月1日より旅行の制限はいっそう強化されて、普通にては、辰野の1つ手前の駅までしか売らぬ由、軍公務以外は甚だ不便とある。それ故、神の湯前進座につきての紹介状を差し上げた。
☆註 13日/御前会議で「ポツダム宣言」の 受諾を決定。
☆註 14日/山口、岩国大空襲死者517人。
14日から15日/埼玉熊谷群馬伊勢崎空襲、死者300人以上。秋田、土崎空襲死者300人以上。
8月15日
☆註 正午、天皇による「玉音放送」によって「終戦」が国内外に伝えられる。
10時頃に村役場より市村宅に電話ありて、本日12時より天皇陛下の御放送あり、重大放送あるにつき皆々聞くべしとある。寿美子別家より帰り、既に昨夕、畏き(おそれおおき)御放送ありと予告もありしという。
予は御親(おんみずから)の御放送とあれば、条件受諾のものと思推(しい)したり。
観音寺に行きて聴く、機械甚だしく聞こえ悪しかりしも、大詔(たいしょう=おおみことのり)を御朗読遊ばさるご放送に続きて、9日以来の閣議その他の動きを発表、結局、国体護持の諒諾を得て、ポツダム会議による諸条件を受諾して戦争収拾の実を挙げさせられたものであった。13日の午前10時45分よりの御前会議において確定するものなりき。
○巷の声のいろいろ
#国としては悲しき結果なるも、個人々々としてはホッとした1種の安定感を得たること。
#国としては悲しき結果なるも、個人々々としてはホッとした1種の安定感を得たること。
#こういう事は歴史の上にもあった。
三韓を支配した後、支那の努力により任那(みまな)をも手放すのやむを得ぬものと至りし事。
☆註 戦前の歴史では「日本書紀」の叙述が定説だった。
秀吉の朝鮮征伐の後の事
何れも同一の結果、今回は最も大仕掛けにて、しかも大きな国辱となりし事。
○谷原の細君オキヨ16日に来て、牛肉を百メ6円50銭にて5百メ誂えたそうだ。その時に言う「昨夜は一晩業(ごう)が出て眠れなんだ。あんな安いお金で供出に骨を折り、汗みづくになって働いたのに、こんなことになってしまって、どうにも業が湧きました。」と言うのである。大詔につきては何もないのであるが、農家の一主婦の憤慨、また見るべきである。
8月16日
夜、奨の宅に招待されて兄と共に行く。ーー中途にて牧内と言う伍長で、青年学校の人来るーーこれも奨を相手にして大いにグザル(☆方言で怒る)ーーこんなことになろうとは思わなかったと、大いにがっかりしていた。
○奨、予等の意見としては、ともかくも、この御聖断に対しては、考えていた通りの御聖断と拝する、ドイツのようにならずしてのこの結果は、むしろ結構であるーーというに一致した。
○8月14日に新盆とて中屋に行き、飯田郵便局に出ているじいさんに会った。曰く、広島の新型原子爆弾は一挙に20万人死せし由。
○8月14日に新盆とて中屋に行き、飯田郵便局に出ているじいさんに会った。曰く、広島の新型原子爆弾は一挙に20万人死せし由。
○家は棟より割れてぺちゃんこになれる由、広島の放送局は局長を除き全員死去せし由、
長崎は全員ともに死せし由、
○科学の優越と工業力の優越によりて敗北せし
☆註 日本への空襲8月15日の当日まで続き、内地では200以上の都市が被災、被災人口は約970万人、被災面積は約1億9100万坪、内地全戸数の約2割にあたる223万戸が被災、死者数は約56万3,000人。(朝日新聞社調べ)
東京への空襲、区部の空襲は60回以上。東京都全体での空襲は100回以上、確認された遺体は約10万5,400人、負傷者、約15万人。罹災者、約300万人。罹災住宅約70万戸。焼失面積、区部の市街地の約50%。(戦災資料センター調べ)
B29爆撃機/前年11月からの10ヵ月間で、延べ17,000機来襲。日本の陸海軍本土防空部隊が撃墜したB29は485機、撃破したのは2707機。戦死した米軍搭乗員は3041名。(米国戦略爆撃調査団の統計)
空襲警報/本土防空用にレーダーを組み込んだ早期警戒システムを整備した。しかし各地に設けられた、軍民双方の対空監視哨(目視にて敵機を監視する見張り台)と司令部間の通信設備の不備などから、日本本土空襲では必ずしもうまく機能しなかった。
太平洋戦争での日本の死者/軍人軍属等約230万人、外地邦人約30万人、内地戦災者約50万人合わせて310万人(厚生省 )
第二次世界大戦(1939年9月から1945年9月)の死者
【枢軸国側】
日本 310万人
ドイツ 689万人
オーストリア 118万人
イタリア 43万人
その他 163万人
【連合国側】
ソ連 2060万人
中国 1321万人
ポーランド、 603万人
ユーゴスラビア 171万人
フランス 60万人
イギリス 38万人
アメリカ 29万人
アジア太平洋各国
朝鮮20万人
台湾3万人
フィリピン111万人
ベトナム200万人(餓死)(ホーチミン発表)
ビルマ15万人
マレーシア、シンガポール10万人
インドネシア400万人
インド150万人
オーストラリア2万
ニュージーランド1万人
(人間自然科学研究所調べ)
計6517万人
外壁を残して全焼した歌舞伎座
<続く>
0コメント