繁俊の日記から⑧/太平洋戦争最後の半年/昭和20年7月の記録

☆註  終戦間際になると、これでもかと言うほどの空襲が、日本国中を襲います。
九州の拠点の熊本や日本海軍の施設、造船所、兵器工場、海軍兵学校などのある広島、呉は何度も攻撃されます。
☆註 7月1日熊本大空襲死者およそ500 人。広島、呉空襲死者およそ2000人。
   

7月4日 

午前11時30分警報出る
0時30分位空襲、但しP51約120機にて、霞ヶ浦、千葉あたりを攻撃して退去。
☆註  高松空襲死者1359人、徳島大空襲死者およそ1000人。

7月6日、7日、8日午後に小型機にて、千葉、茨城方面の飛行場、軍事施設を攻撃、8日のは立川方面にも1隊来て、帝都上空にも来たり、高射砲久しぶりに鳴りたる。
☆註  7日 千葉空襲死者1679人、甲府空襲死者1027人。
9日 和歌山大空襲死者およそ1101人。
10日 大阪、堺空襲死者1860人、仙台空襲死者1000人以上。
12日 宇都宮大空襲死者628人。

7月13日 
昨夜、11時半頃よりツユにてドシャブリの中へ警報まもなく空襲となり、川崎の方面炎々と燃えたが、これは2時ごろには消火した。あとにて聞けばガラス工場の由。雲低く、ドシャブリの雨の中をピカリとしては爆弾の音もして焼夷弾と見えたりき。 
☆註    14日、岩手、釜石艦砲射撃死者515人。
14日〜15日青森、北海道空襲、青函連絡船8叟沈没死者2000人。室蘭、艦砲射撃死者500人。茨城、日立艦砲射撃死者395人。


7月16日

 夜11時半ごろより警報、ウトウトして1時ごろに目覚れば、ドロドロと近くにてとどろく、起き出てみれば京浜西南方に敵B29の襲来なり。
雨天なるに、ピカピカとしてはとどろく、藤沢、茅ヶ崎、辻堂、平塚、大磯、小田原、沼津方面の爆撃たりし。
☆註  この頃の繁俊のことを書いた俊雄(登志夫)の随筆があります。
「(前略)   戦時中、空襲が激化して母や姉たちを信州へ疎開させていたとき、父は東京へ残っていたが、リュックの中へ身のまわり品と地図を入れ、ゲートルと地下たびをいつも、まくら元に置いていた。「焼かれたら信州まで歩いて行くのさ」といって。毎日飯田中学へ片道二里半の山道を歩いて通った父には、なんでもないことだったのかもしれない。
円満な人、温厚な紳士、と人は言う。それは長い抑圧的な精神生活と、現実処理の必要からつちかわれた、性格の一面の表れだ。しかし父の生涯を支えてきたのは、こうした信州生まれの野生的な力と気概と、世の中や人に対する誠実さであると、私は観察している。」(朝日新聞、昭和34年10月掲載)

写真は河竹家にまだある、繁俊、俊雄が使ったゲートル。ズボンの裾を折り細めて、足首の方から膝下に巻いていって、1番上に付いている紐をはす掛けにして止めます。動画検索で「ゲートルの巻き方」を見ると、よくわかります。しまうときは、紐をゲートルの幅にまとめて芯にして巻いていきます。紐の付け根の商標にはアスレチックグッズ、デパートメント、ミツコシ、トーキョー、ジャパンと敵性語の英語で書いてあります。ズボンの裾が歩く邪魔をしないように、虫や砂が入らないように長時間歩いても鬱血しないようになどが効用です。
地下たびはこの日記で弟の奨にもらったものとわかります。下は当時配給で配られたタバコを巻く器具と紙。繁俊はタバコは吸わなかったので、残っていたのでしょう。

7月17日 
16日の空襲で東海道線不通、茅ヶ崎大船間、大磯三島間折り返し運転だったが、しかし2日後にはほぼ全通の由、国鉄は大したもの。

青森方面襲撃にて、連絡船はやられて、交通途絶の様子 

7月18日 

大谷社長と面会の用あり、10時半に宅を出て芝明神町の川尻氏宅へ行き、連れだちて地下鉄にて京橋に下車せしところ12時、警報になる。
☆註  大谷竹次郎は松竹株式会社社長、川尻清潭は歌舞伎研究家、この頃劇場の監事室に勤務、演出なども。


松竹本社に至りて暫時まち、大谷氏と逢ううちに空襲となる。艦隊機の茨城方面攻撃なり、千葉県と茨城県をやる。
地下室にてまた1時間半ほど話をして、2時ごろに出かけ、電車にて新宿に出て帰宅。
狛江なる人来訪あり、小時話して帰る。そのうち横須賀方面に来襲にてドロドロという、5時過ぎ解除となる。
☆註  この日から22日まで、下諏訪の神の湯へ。前進座がここを宿舎にしていたので、稽古などに立ち会ったのでしょう。

○午後10時新宿より浅川行きの電車に乗り、八王子にて下車。そのままホームにて朝の5時まで始発を待つ 

        ○


寒い7月の半ば 

ウトウトしたらすぐに目が覚めた。

あぶない!これで眠ったら 

風邪をひくことは受け合いだ 

大変だというので、コトコトと歩く

いぎたなく、死体のようになりて 

皆ねている 

待合室の中にもねている

外にもねている 

階段の下にもねている

焼け出された時持ち出した 

と思われる布団の上にねている

荷物を抱えて顔を埋めている 

電車で声をかけられた 

前進座の中村進五郎くんも 

ねている 

今のサキまで私のとなりにいたと思ったら 

ゴロッと勇敢にも 

階段の下にねている 

俊雄もねている 

私はずっと東のはしの

昔の物売り台の上にのぼる

丁度仰向けになっていられる 

そこで一中節をうなっている

黒髪の一節を何遍も何遍も

くり返している 

1時、2時、3時、4時、 

4時過ぎには東が白んできた 

追々に白らむのをジッと眺めたのは 

これが初めてくらいなものだ 

3月10日の空襲の火事を

思い出した、丁度 

あの時のように、赤るくなり出すのだ


☆註  一中節「黒髪」

黒髪の結ばれたる 思いをば 

とけて寝た夜の 枕こそ

ひとり寝る夜の あだ枕

袖は片敷く(かたしく)   妻じゃというて

愚痴な女子の 心と知らず

しんと更けたる  鐘の声

昨夜(ゆうべ)の夢の 今朝覚めて

ゆかし懐かし やるせなや

積もると知らで  積もる白雪

(恋した男と別れたやるせないひとり寝、懐かしい夢を見たが、それはもう昔のこと、黒髪もしらぬまに今は白くなっている)   作詞者は一説に蓮如上人


早稲田で英文学、演劇を学んでいた若い繁俊が坪内逍遥の推めで河竹黙阿弥家に入り、黙阿弥長女で養母の、糸女に習ったであろう一中節の1節です。
糸女は、宇治派一中節創始者の名人お静に若くして入門し、二代目お静を許されていました。
登志夫は随筆で「一中節をやったと言うが未だ確認せず、小早川清太郎に習った狂言だけは全曲覚えていると得意がるが、たまに興に乗って始めても、ものの1分でおしまい、西洋音楽に関しては、もはや語る勇気を持たない」と書いています。
が、戦場と同じような、いつ襲撃されるかわからない日々の中で、人の一生の儚さを深く感じながら、この古く雅(みやび)な「黒髪」をひとり口ずさんでいたのでしょう。

        ○

 

汽車はガラアキだ、2等も3等も 

2等には及ばない! 

入るとすぐにグウグウとねる 

駅をあまりわからぬくらいにねる 

        ○ 


甲府の手前、酒折あたりから

焼夷弾の焼けあとが見える 

どれもどれも2町四方位づつだ 

それが甲府の町になると 

ベタ一面に焼けている 

ここにもヤケトタン、ヤケたキカイ 

東京と同じ焼原になっている、

        ○ 


 7月19日

 ○午前10時40分頃に下諏訪駅着、重いリュックを皆背負って町を歩きはじめた。3町ほど行きてトコロテンを食べさせた、木庭大学院の学生も同行。

○やがて諏訪神社のところから山へ上る、爪先上りはやがて胸付きのようなところも少しずつある。日盛りで珍しい天気、汗が久しぶりでムチャクチャに出た。

○12時ちょっと過ぎ位に、神の湯の石段を登りきる。汗ビッショリ、よくリックを背負ってこられた。


       ○

下宿屋のような宿屋、 

汚い柱、チャチな床、

やぶれたフスマ

ハゲチョロケの壁 

腰張りのない砂壁 

ウスギタない6畳の間 

いつ掃いたのかしら
 
       ○ 


五六町先きに小山がある 

その左側に村落が 

霧ヶ峰はその上にひろがっている 

ウグイス

ホトトギス 

閑古鳥 

クイナ 

その外の小鳥の合奏

 渓流のせせらぎ

      ○ 


何段も何段も、

ガタガタという廊下

エンガワを通って 

下の湯ぶねに行く 

霊鉱泉を沸かした湯 

石鹸は使わぬ決めだから 

どうやらタスカル 

四尺に五尺位の浴槽 

木製の 

男も女もザブザブと混浴 

4人しか入りはしない

       ○ 


すぐ向こうから礦泉が 

竹の樋(とい)からシャーシャーと落ちている 

茶碗があってそれをのむ 

確かに相当に渋味がある 

ききそうな気もする
 

☆ 註 19日福井空襲死者1576人

      千葉銚子空襲死者1181人


7月22日 

今朝ようやく朝日を拝した、梅雨のジメジメとして薄ら寒い日がつづいた。19、20、21日といるのだが、警戒警報が1度だけ出た。12時のラジオで、Bが来たことなど報じているが、それが重なって聞こえている。これは便利だ、普通の報道がちゃんと聞こえていて、その中へブザーが入り、警報の情報が聞こえる。どっちも相殺されるが、聞こえぬ事は無い、要点だけはわかるのだ。

清澄な空気、セキレイも聞こえる、小鳥の名を一々知りたい。

     ○ 

お百姓が入りに来ている 

ききますかと言えば

ただにやにやと笑う 

あったまると筋がゆるむのだ 

そこで来るものらしい

雨が降ると筋を緩めに

 来るのだ


 追記

 7月17日に兵器行政本部補給部の田中少尉がまた見えて、一応また我が家の部屋を見て、結局少将(部長)と中佐(課長)とか2人の宿舎に当てることになったと言う。すると(☆成城町の)馬場町会長のところにいた少将が来るのかと考えられる。

そうして、1尺(約30cm)に5尺( 1.5m)位の紙に「陸軍兵器行政本部宿舎」と大書したのを張ってくれとビョーを4本置いていったという。ハッキリと取り決めもせぬうちに、軍と言うものは仕様のないものだ。
一切は印南くんに交渉を頼むこととする、ああ思うようにいかないものだ。 


☆註 庭の斜面を要塞にして、大砲や兵器、馬具などを入れておく横穴を掘り進め、野砲5門が既に林の中に置かれている。

そして陸軍の少将と少佐が家の部屋を宿舎にすると言う。すべて有無を言わせず、取り決めもせず、決められていきます。終戦までの間、陸軍の軍人が行政本部宿舎として寝泊まりしたようです。


長野の山奥で繁俊は3日間にただ1度だけ警戒警報を聞きます。つかの間の自然の中で、「小鳥の名を一々知りたい」とつぶやきます。


☆註  20日には、東京駅、八重洲口近くの堀に原爆の模擬爆弾が投下された。
☆註   25日大分保戸島空襲児童と教師127名死亡。
☆註   日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言発表。これは鈴木貫太郎内閣により黙殺されます。

☆註   26日松山大空襲死者およそ300人、山口、徳山空襲死者482人。
28日 愛知、一宮空襲死者727人、青森大空襲死者およそ1000人。
29日 多摩の保谷に原爆の模擬爆弾が投下され、被害者出る。
 

 《続く》




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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)