繁俊の日記から⑦/太平洋戦争最後の半年/昭和20年6月の記録

6月1日 

吉村三五郎氏の話によれば、横浜には毒ガスを散布せり、そのために死者多数なりと聞くとあり。如何や、

 ○宣伝ビラはだいぶ効き目ありしようなり。


☆註 米軍が空からまいたビラ。これは繁俊が拾ってきたものでしょう。当時拾ってはいけないもので、憲兵が見張っていて、下手をすると非国民として警察に連れていかれるというものでした。国民や兵隊の戦意をさげるからと、目に触れないようにしたのです。
裏面は4月にルーズベルトが亡くなり、トルーマン大統領の写真が載っています。
☆註  上のビラの文章です
「これらの質問は、ハリー、エス、ツルーマン、アメリカ大統領の日本国民あて勧告において発せられた。諸君はかつて東京への最後の障害たるグアム、テニアン、比島、硫黄島、沖縄を防衛すると断言したではないか。アメリカ米機をして断じて日本上陸を犯さしめないと確約したのも諸君ではなかったか。諸君は果たしてこの約束を履行したか。米国はこの戦争を最後まで戦い抜く決意であり、勝利を達成するに要する多大なる困難や、絶大なる犠牲を厭うものの存在しないことをここに反復確言するものである。諸君の将来は、君たち自身の手の中にあり、諸君は多くの兵を無駄で醜い死に投じるか、あるいはまた名誉ある平和を採るか、そのいずれかを選び得るのである。」


 ○4、5日前より庭の下段に野砲5門を持ち来たり、林の中に入れてある。少々気味悪し。

☆註  先月から要塞化の工事をして、とうとう武器も運んできた。野砲(やほう)は、大砲の1種で、主に歩兵が野戦で戦う小回りの効く口径1000ミリ以下の軽カノン砲。大砲は1門、2門と数えます。

 

○ 5月29日の午前中の横浜空襲によって、須田敦夫君災死せる由。彼は去る23日に学位論文通過せしに、なんとも気の毒の至りなり。
その話に、焼夷弾がしきりに落ちるので、皆家の中にて注意していたが、火事が四方に出たので避難しようと、母、妻を連れて出たが、またもや激しく落ちる。危ない、危ないと軒下に母妻の2人を抱えるようにしておりしに、1弾頭上に落下して倒れたとある。鉄カブトも割れて1時間ほど呼吸ありしが死去するとある。まことに気の毒なり。妻君の話にては、ある人兜凹みしと言うがそれも死せし由。まことにきけん! 
 6月10日
3日ほど前の話にて「10日には、世田谷方面に行くから敢闘せよ」との宣伝ビラをまいたとあるので、7時頃よりの警報には用意せしが、9時半ごろまでにて終わり、「京浜地区西部、「千葉付近、「霞ヶ浦をやりしという、B29 300機、P51 、50機とかいう。
☆註  茨城、日立空襲、死者およそ1200人


 6月11日 

正午前後来襲
P 51 戦闘機 6 、70機来たり、京浜西部、八王子付近に来る、
1両日後、高勢氏の話によれば、一機低空にて来たと見る間に東方に行き、バラバラと機銃掃射をして西方に転回した。味方機後より追い行く由。
してみれば、''PCl ''ではなく、喜多見の御料林内にて火を焚き、煙上がりしを見つけて攻撃したものらしく、馬2頭死し、兵も負傷した由。非常の低空であろうと言う。
☆註  PCLはPhoto Chemical Laboratoryの略称
1931年砧に設立された写真化学研究所、トーキー映画制作などの会社、

☆註  御料林とは皇室所有の林

 ○先月26日の麹町のはなかなか危険だったとある。渥美氏のおりし町の隣組みだけで十数人の死者ありし由、牧野良三と吉田の主人とは朝まで戦ったという。
☆註   渥美清太郎は演劇研究家

☆註 牧野良三は国家総動員法を違憲と主張した大正昭和期の政治家、国立劇場設立の件で繁俊とは既知のなか

 6月16日 

今朝午前0時半頃に警報出てまもなく空襲となりしが、B 29、10数機にて1部は新宿に、大部分は駿河湾に機雷を投下、地上には何の攻撃も加えざりし由。但し大阪に300機ゆきて、爆弾と焼夷弾を混投せる由。
☆註  繁俊の日記に初めて機雷の記載

☆註  6月17日、鹿児島空襲死者およそ3300人以上

   6月18日、浜松空襲死者1717人

   6月19日、福岡大空襲死者約1000人

   6月19日、静岡大空襲死者1952人

 6月20日 

昨夜11時半に警報発令、1時半に及ぶも空襲にならず、但し6機鹿島灘より新潟沖に機雷投下、約100機近く静岡に来襲、焼夷弾攻撃をなしたる由、

#ふと見れば谷間の蛍しづかなり 
      Bの去り行く爆音の中

#Bを待つ乱雲の端の月凄し
       探照燈の一時に消ゆる

#美しき富士ケ根なれば近づくか
        世におそろしきBの目標

#鹿島灘九十九里浜相模湾
       Bの入り来る道筋きびし

この夜には、静岡と同時に、豊橋、福岡もやったとある、鹿児島、四日市、浜松もやられ、東京、横浜、大阪、神戸、廣島、その他、追々中都市に及ぼすを見る。 

6月22日

☆註  広島、呉空襲死者およそ1600人

6月23日 

今日は朝の7時頃から、正午までに3回警報が出た。5機 バラバラである。が、11時50分頃、又々伊豆列島を東に添いて3目標ありという、ソロソロ近づいて来ている。(12時7分前) 困ったものだ。
正午になると、B29、3機に誘導された小型機30機が犬吠岬付近より侵入して空襲警報となる。ーー約75機が、霞ヶ浦辺りの航空場、軍事施設に攻撃を加えたとある。

☆註  沖縄での組織的戦闘が終わる

6月24日

昨夜11時半に警報発令、鹿島灘よりB 29 、5機侵入して新潟に至り機雷投下の由、新潟に空襲が出たが寝てしまう。
○豊橋は駅の営業を停止している、よほどヒドクやられたのであって、吹き飛んでしまったのだともいう。
○四日市もヒドクやられたとあって、警戒警報だけで空襲を受けたのだそうで、室に皆寝ていたところをやられたのだという。 
○静岡は見渡す限り何もなき由、浜松、豊橋も何もなき由、 

○宮城は、実にムザンにやられし由、軍隊が今以て100人ほどづつにて片付けに行っている由、

      

                         ○


ヤケトタンがカラカラ、カサカサと 

風に吹かれるたびにつぶやいている
ホームから見おろしていると、
ピューととぶのもある
まことにさびしい気持にさせる

       

                        ○


年若な夫婦が 

トボトボとアスファルトの道を歩きつづける 

2人とも相当のカサの荷物をしょっている 

多分2、 3日前のにやけ出されたのだろう

男は、ジッと地べたを見つめたまま 

女も無表情で、時々道行く人を見る

男もためいきをはいて正面をきる 

何を考えているのだろう

職場の事か 

食料のことか 

今晩のトマリの事か 

ソカイ先の事でもあるか 

大きな消耗よ 

気の毒とも何とも 

そういう人々を沢山に見かける

    

                  ○ 


リヤカーに一人女をのせて

疲れた人が疲れたヒトを 

カタコトと下駄の音をさせて 

ひいて行く 

サミダレの中を
        

                   ○ 


リヤカーに一ぱい夜具や

家財をつんで 

若き息子と見えるが曳く

おやじみたいなのがツナをつけたのを曳く 

細君らしいのが後押しだ
足取りもそろわず
息子は足元ばかり見て 

大事をとって曵いている 

細君は男の通りだ

おしりが大きいだけだ

これも市中の中を目がけて行くのだ 

ヤケトタンのササヤカな家へ行くのかしら

        

                         ○ 


あのヤケトタンの犬小屋にも

劣ったような小屋

どんなのでも坪千円だという

ちょっとしたのは一万円かかるそうだ

これが一体どうなって行くのだろう


        

                           ○ 


兵隊が 

谷を控えた小高い丘という丘を占領している

立ち入り禁止の札が立っている 

壕舎を作り 

毛布をツナにかけて干している 

あれは兵舎であって、

又陣地になるに違いない 

戦場化は 

静かに、速やかに近寄りつつある 

コンクリートの塀も頼みに

するらしい

         

                        ○



やけあとの路の並木 

黒くフスボレた幹の 

土に近いところから

若葉をつけた芽が3寸も

伸びている

強い、強い

        ○ 



高山の白く風にさらされた立枯れの木 

それが黒いのだ 

ふすぼれた黒い、葉のない 

幹と枝が太古の姿を 

ただよわして立っている 

戦災地の夕方 

犬の声も聞こえない

6月29日
☆註  この日 長崎、佐世保大空襲死者およそ1300人。 岡山空襲死者1737人。
《続く》

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)