繁俊の日記から③/太平洋戦争最後の半年/昭和20年1月の記録

昭和20年

1月1日 

午前0時ちょっと過ぎ警戒警報、少数機にて静岡に上りて1時頃に解除、
続いて午前4時3分頃に発令、少数機にて(2機)来たり、関東西部より北部に入り京浜地区に入りて、近所にて高射砲を打ち上げたにより外へ出てみた。月光昼間の如し。
 ○先日(いつのか知らず)夜落とせし焼夷弾は、柳橋の三業地帯に落ちて、1区劃焼亡したという。
 ○松下英麿、印南両君来たりて食事するときの話、ーー資材は事実足りませぬ、今年3月には何とか目鼻がつくようになるであろうとのこと。ーードイツは、2月にはまいると思いしに、なかなか持っている、3月にはーーと言うのだそうだ。(どうかしら?)

☆註  松下英麿  中央公論編集者、ジャーナリスト

   印南高一  演劇博物館職員 演劇研究家

 ○最近の焼夷弾、上野広小路の黒門町と末広町との間は、電車通りをすっかり焼いた由。
錦絵店3軒ほどありしに2軒まで焼けた。その1 軒、中島と言うのは文部省の清水局長の出入りの店にて、31日に見舞いに行きしに、焼夷弾は2個落ちた。1個は消し止められたが、もう1個が店舗に落ちて、なんともできず残念した。ほとんど何物をも持ち出し得なかった家が多いと言うことなり。

1月3日

 ○本日は数編隊、名古屋、大阪、浜松地方に来襲せる由、名古屋中心とありて少し案じられる。
☆註 次兄が名古屋在住

○和人君は、11月20日にヒ島にて戦死の由。

☆註 ヒ島は比島(ヒシマ)。フィリピン諸島の事、

前年10月20日からのフィリピン沖での連合軍との戦い。日本海軍は事実上壊滅。海軍神風攻撃隊出撃、レイテ沖海戦とも言う。


1月4日

夕7時15分警戒警報発令、敵1機静岡地区に入り、東進して1部に焼夷弾を投下し、関東地区に入ることなくして退去、まもなく約34分にて解除。
 ○台湾、沖縄へB29 、40機と艦隊機約500機にて来襲せる由。
 ○本日床屋の親父の話にて、大晦日の夕の焼夷弾は、浅草公園地の仏教会館(?)を焼き、大増料理店まで焼けし由、仲見世の東側も焼けたる由。
 ○江口氏の話によれば、先月までの空襲にて、飛行機の生産は3割減、または5割減なるべしという。

  1月5日

午前5時に警報発令、1機にて静岡地区に入り、関東西部を旋回し、南信方面に入りて海上へ、やがて解除。
 ○小石川区坂下町へ爆弾1個落ちしことは前にも記したが、帝大の物理科教授西川氏の家での話。空襲警報になったので、主人は玄関にて靴を履きゲートルを巻いていた。そこへ凄まじい音がした。
気がついてみると、いつの間にか床の中にもぐり込んでいた(夜分のことだった)。ようやく正気を取り戻してみると、自分の家の壁はべたりと崩れている。向こうが見える。すかしてみると、確かにあった家が何もなくなって、平らになっている。
後にて調べると、その隣の家に爆弾が落下したものにて、その家にいた3人の人も家財も何もかも吹っ飛んで、何も残っていなかったのであるという。3人いたのが皆即死と思われたが、どうなりしものかわからなかったとある。日本の家はお隣でも大丈夫と言う極めがついたという。
 ○ずっと早く11月初めの新宿駅で、敵の1機が偵察に来た頃の話。高射砲の不発弾が1個新宿駅のホームに落ちた。物理教室配電室の福田吉松氏の妻君がそこにいた。大きな音でホームの屋根を貫いて下へ落ちて爆発した。するとそのすぐそばにいた人でなく、トビトビに3人の人が破片に打たれて即死、他の人はなんともなかったとある。それを見てから細君が外出ができなくなったとある。
 ○午後9時10分ごろ警戒発令、鹿島灘より本土に侵入して、京浜地区に入り、焼夷弾を投下して、西南方海上に退去。高射砲を打ちたりき。ピカピカと光る。不明目標東方海上にあり、警戒を要すとありしが、友軍機なりき。

1月6日 

午前5時警戒発令、東方より本土に侵入、京浜地区に入り、1部に焼夷弾を投下して、南方海上に退去5時35分頃に解除。
午後8時過ぎ警戒発令、40分後に解除。

 ○福田氏話に、浅草蔵前にも焼夷弾のための火災ありし由。仲見世も入って東側も焼けたる由。

 1月9日 

午後1時半頃に警報発令、静岡地区を北進しているとて、暫時して空襲となる。第4編隊まで来たり、他は1、2機にて各地に爆弾を投下せる由。中部地区にも長々といたりし様子であった。
 妻の友達、島田時子氏訪れありき。畑のところへ出て眺める、本日は敵機はいずれも少しずつ白煙を曵いてすーっと行く。忌々し。友軍機が、一機攻撃して撃たれたのであろう、黒煙と焔とを吐いて消えてしまった。3時半ごろに解除となる。
○午後11時45分発令、小数機京浜地区に入り、焼夷弾を落として、東方海上に退去、まもなく午前0時10分に解除となる。ーー高射砲の音もせず。
 ○ 8日の夕方5時ごろ奨(☆註、信州に在住の弟)上京まいる。楽しき夜にして、生別同様の感にて、翌朝7時に出立せり。東京駅より豊橋経由にて帰宅の予定。空襲に逢わぬよう案じる。
奨の話に、多分、桐ヶ谷駅での目撃者の話を聞いたのだろう。「爆弾の落ちるのも見えた。爆発とともに駅の建物も人も何人か、すーっと20メートル位吹き上げられて、形がはっきりと見えたが、それから消えてしまって、人の形も建物も見えなくなってしまった」との事。
 ○ 3日ほど前の明け方の敵機は、山本付近(☆弟の住む飯田市、山本村)の低空を飛びしと見え、ウナルものすごい爆音が聞こえたので、子供等怖がりてかじりつきし由。
○名古屋方面空襲のときには、天竜川を上りて新野辺の上空にて○○をして名古屋方面に向かうようだと申せり。
 ○この日の空襲は、帝都と名古屋に40機位づつ、それに三重県、和歌山県、静岡県と少数機にて来たりしものの由。

 1月11日 

午前0時ごろに発令
敵1機静岡地区を北進し、関東西部より帝都に入る。高射砲を打つ音近くすさまじく聞こえたが、案外早く1時頃に解除となる。

 ○午前2時半ごろ警戒警報出たる由。寝ていて知らず。

 ○午後9時50分に警戒発令、伊豆方面より1機侵入、北進して南信地方に入り、京浜を通りて海上へ、11時5分過ぎに解除。

1月16日

午前10時、俊雄と共におハヅケ(☆漬物)を持ちて、池之端の左団次氏宅(☆ 2代目市川左団次未亡人宅)に行く途中、山手線の省電田端駅あたりにてサイレンを聞き、人々も警報発令を言う。
上野駅に降りて予定の通り池之端に行く。鉄カブトの人など、公園前の待避所に入ろうとして6、7人宛列をしている。
「空襲警報になりましたか」と問うに、中年の男「発令になりました。」と言う。空襲になりても、ともかくもとて急ぎ足に行く。左団次夫人に面会して、おハヅケと大根3本とを差し出す、その時に東部軍情報にて空襲警報解除を言う。空襲にはならざりし。
切道し下を通る時、5機の友軍機見えた。演博(☆早大、演劇博物館)へ来て聞けば、警報と同時に1機頭上を通過したるなりと。偵察らしく、今日午後来はせぬかと言いしが別条なかった。
1月17日
午前4時45分警戒警報出る。伊豆方面より1機関東西部に侵入せるも、京浜地区に入ることなく南方海上に脱去。5時15分頃に解除。
○正午のニュースによれば、昨夜午後、名古屋次に京都に各1機侵入して爆弾のみを投下せし由。
○午後8時45分頃に警戒発令、伊豆方面より敵1機侵入、京浜地区を通過して南方海上へ、10時15分解除。

1月19日

○午後1時半頃に警戒発令、昨日より○○おる軍需省のサキヤマ親方土屋氏東部軍情報を聞きたがるーー相模湾の上を旋回、関東西南部に入りしが京浜地区に入らずして、南方洋上に脱去、3時一寸(ちょっと)前に解除となる。
ラジオによれば、約80機にて初めて阪神地区を襲いし由。紀州方面と京都に出しものと思わる。
 ☆ 19日から26日も連日警戒警報、空襲警報あり。
1月27日
午前1時頃に1回
午前4時過ぎ1回出る
午後1時頃に警戒発令、2機静岡より西南部に入り、通り過ぎたが15分ほどして空襲に入る。第1編隊が18機、2、3、4、5と70機にて来襲、高射砲の音おびただしく、暫くして3時過ぎに解除。
俊雄の話によれば無差別らしく、各所に黒煙の上がるを見たりとあり、山手線の電車線路にも被害ありし様子である。
 ○午後11時ごろに警戒発令、1機侵入
#この日の編隊爆撃は都市にて、翌28日向野矩子さんの話によれば、日比谷山水樓より銀座にかけて、鳩居堂も焼けたるよし。ホテルの近くも焼けたとある。小石川の植物園のあたりも焼けたる由。上野辺りもやられた由、地下鉄も21日は不通とある。

1月28日 

午前10時ごろ、日曜にて金子憲君来訪ありて洋間にて対談中、高射砲らしき音するにより、おかしと外へ出てみるに、白き炸裂の煙り、6つ7つ敵らしきウナリのある音するも見えず、まもなく警戒警報出る。
解除となって、まもなく11時ごろにまた警報出るもまもなく解除。

1月29日 

午前1時と午前2時にも警報発令

 ○27日午後3時頃よりの空爆にては、有楽町駅破壊、朝日新聞社と日劇の間に1弾落下、有楽座の裏、山水樓あたりより数寄屋橋、鳩居堂、松坂屋の近所にもありきという。歌舞伎座の前あたり一帯、美松もやられたる由。○鶯谷駅の近所、上野駅近所、不忍の池の中央部らしい、小石川白山辺り、○○の辺。
 ○昨夜の爆弾、焼夷弾にては、本郷、根津神社、日本医科大学、団子坂付近がやられし由、早大出版部の東○○氏は全焼の由。
 ○有楽町駅にては、警報により大勢切符を買いに殺到していたので、多數の死傷者を出したらしい。トラックにて重傷者を運び、散乱した手や足をトラックにいっぱい運搬せし、などの説あり。

 ○大谷竹次郎氏は顔面に負傷せる由

☆註  大谷竹次郎 松竹の創業者 歌舞伎座社長


 ○共同印刷会社焼亡

 ○友軍機の乗員1名落下傘にて早大上をフラフラしていて、富山陸軍病院の辺りの木に引っかかりて落下、病院に収容されたるよし。

 ○下谷不忍池の中より上野の山、浅草の雷門、東橋亭辺りにも爆弾ありし由。 

○松竹本社には東側の上より2、3階目の所へ上より突き抜けたが、爆発してそぎ取られたようになり、東側の平屋は焼亡せし由、
大谷社長はガラスの破片にて手と額にわずかな傷をせしゆえ、担架にてと申せしがそれに及ばずとて、階段を降りようとして脳溢血を起こしたとのこと。2、3人の女事務員に、1、2人の社員即死の外は軽傷程度の由。

1月31日

A.K.(☆NHK東京放送局、JO AKの略語)より出て一巡視察する。山水樓、泰明小学校、鳩居堂、竹葉の辺り焼失、尾張町の交差点、新橋寄り両側に1弾落下、地下鉄の線路まで突き抜けた由にて、まだ穴を埋めておりたり。階段など縄張りして立ち入らせず。

昭和18年に銀座のAKの屋上で写す



 ○富多葉、平山さんの話ーー「爆弾の落ちる時は、飛行機の急降下の時のようにシューンと言う凄い音がしばらくしてから落下します。音によって退避所に飛び込んでもよろしい。地下にある部屋、防空壕は、チャチなものでも安全でした。」

 ○ 31日に松下英麿氏に逢う、27日のは即死者300名、重傷者400名、軽傷者1300名、合計2000の死傷者の由、相当のもの。

☆註 戦災資料センター、現在の記録では死者530人余


 ○中島飛行機会社からは、スパイが22人、相当の地位にあるものが捕らわれし由。

 ○松竹のある部屋にては、落下の反対側に椅子でも計器でも人間でも吹きだまりのようになりてかたまり、その下になりし重症者は死亡せし由。窓枠の鉄のサッシが、背中より腹部に貫きて、死せるもありし由、松竹本社にては4名の死者ありし。

 ○銀座裏の某湯屋にては、3時の営業開始の時刻前に特別の人を内に入れていた、そこへ落弾して、その何人かが行方不明、何も残らずなりと言う。

 ○菊田一夫、いつもの性質なれば、街頭へ出てみるところを、いち早く伏せていて、皆々事なきを得た。

広東でやられた覚えがあるからとのこと、関口二郎氏の話 

☆註  菊田一夫 劇作家、作詞家 「君の名は」「放浪記」など

☆註 アメリカ軍1月にルソン島に上陸、2月には日本軍守備隊全滅

   《続く》

河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)