繁俊の日記から②/太平洋戦争最後の半年/昭和19年12月の記録
12月3日
☆註 庭から富士山や八王子方面がよく眺め渡せた。
☆註 繁俊息子(俊雄は戦後、ペンネームとして登志夫を使用)
☆註 高勢実乗(みのる)は当時人気絶頂の喜劇役者「あーのねおっさん、わしゃかーなわんよ」で一世を風靡した。隣家の住人。
7キ、5キ、1キというように、白く大きくキラキラと光りて明白に見える。
○高射砲の煙が、ムラムラと現れると、その辺りから編隊が堂々とあらわれる。
☆註 戦果とは B29を日本の戦闘機が打ち落とした数
12月7日
情報によれば、房総方面より小数機帝都上空に来たが、爆弾投下せず逃走、3時13分解除となる。明後日は3年目とありて、何事か大きなることあるべしとの期待にて物情騒然たり。
ただちに引き返す。帝都線電車にて、伊藤熹朔氏に逢いて話せば、正午頃その筋のお達しなりとある。かようの事は前代未聞というべし。
俊雄の話にては、敵の大機動部隊が接近しつつある由にて、そのための警戒に入りしものとあり。
12月8日
午前2時警戒警報発令、10分して空襲発令。
敵機は房総半島より入り、2機又は3機の二箇編隊なるも、帝都上空に至らず、高射砲も打たず。
○小学校も7、8、9の三日間を休みにせしよし、これまた前代未聞。
☆註 12月7日東海地方に大地震、津波あり、死者998人、全壊26,130戸
12月9日
又々この夜2時スギに警報発令、敵1機にて空襲に入りしが、起き出でず。
12月11日
○演博の学生の話に3日の日曜の午後石神井あたりを散歩していた時に、爆弾落下せし由、爆弾は九州の方の経験、話にてカラカラカラカラという音がして落ちる由、その音を身近に聞いてびっくりし、あたりの壕に飛び込みて事なきを得たりとのこと。100mの近くに落ちしが、壕が3m程度深いものだったので助かりしとのこと。
焼夷弾は、夜分は2里(8Km)も離れたところより見えて、キラキラときれいに燃えつつ、花火のように落ちるのである。
12月12日
○前進座は歌舞伎座を始め、各劇場とも誠に不入りの事につき、月末の指導演劇も辞退したき意向なり。
○雪
また作夕7時過ぎのには小石川区坂下町、雑司が谷、日の出町などに焼夷弾多数落下し、火災1時間ほど続きし由。
12月14日
☆15、16、17、18日、毎日警戒警報、空襲警報間断なくあり
12月18日
○「まだB29だからいいので、艦載機が低空から来て掃射したら大変です。掃射の丸は長さ7、8寸(2 3㎝)太さ1寸位(3㎝)と言うので、相当厚い鐵蓋の上も、厚板も通してしまうという。みんな死なねばなりませぬ」との事。
☆註 艦載機(かんさいき)は、軍艦に搭載され、そこから飛行してくる航空機のこと。
○B29の危険な東京の荏原から、九州の耶馬渓のあたりに疎開せる医師一家8名、もう大丈夫とタカをくくりて燈火管制を怠りしに、爆撃されて一家全滅せる由。
12月20日
星空。午前0時45分、警戒発令、伊豆方面より少数機京浜に侵入、「数カ所に焼夷弾を落下せるも、住民の協力防火にて目下ほとんど火の手を見ず」とあり(1時30分)、敵の先頭機は京浜東北地区に焼夷弾を投下し、東南海上に退去す。
○俊雄の人から聞いた話に、去る3日の空襲の時であろう。茨城県の神代村に、敵の飛行員2人、落下傘にて降下せる由、村民竹槍にて取り巻き捕えんとせしが、拳銃を撃ちて危険なるにより、帰還兵が猟銃にて撃ちて、血みどろにして捕へて引き渡せし由。
ただし、風船のこと、その和紙の風船に、こんにゃくの糊を用いる話は、他にても聞きしことあり、あるいは事実かと思われる。
○ 20日に名古屋兄より来信あり、13日の名古屋のときには相当の被害ありしらしく、検閲のあった手紙だった。
☆註 次兄市村与一 名古屋の金城学院大学初代学長。
☆註 検閲(ケンエツ)とは国の言論統制で、手紙など軍に都合の悪いところ等が黒く消されたり、検閲印がおしてあったりした。
12月22日
午前0時15分ごろに発令、2機北上とありて空襲にならず。
午前10時20分頃に警報、中部名古屋、静岡に約100機編隊をもってきたりし物のよし、東京方面には飛来せず。
夜9時過ぎの(☆ラジオ)を聞けば、PCLあたりの上空に見え、照空炮にて捕らへ、高射砲さかんに打ちし由。これは多摩川等々力方面に焼夷弾落下せし由、やはり、燈火もれのためとありたり。
12月24日
午前3時過ぎに他の1機も来襲、関東東北部を旋回、4時半頃に京浜地区に向かい、焼夷弾、高射砲うなりて5時数分前に解除、この間敵機2機によりて、3時間不安のうちに過ごす、まことに神経戦とはよく申したり。
○ 12月25日をもって海軍大尉に任官する佐竹二郎君の母君、25日の夕刻に赤の御飯を持ちて来てくれる。
その時の話ーー岩田部その他の海軍航空隊も、このところ飛行機を皆レイテ島方面に持っていかれたので乗ることができぬとの事。このところもったいない位にぶらぶらしているのだとの話。
○俊雄の話にーー爆弾飛行機の特攻隊と並行して工夫された人間魚雷も近々に前線に出る由、先月志願者を募集せしものの由、ただし指名もある由そうなれば同じ事。
○吉田幸三郎氏が11月初めに来邸の時話のありて、「水寅の息子のところに行く。兵器と言いしは人間魚雷との事。その猛烈な爆発に白金が入用の由。」
☆註 吉田幸三郎 逍遥に師事、私財を投じて演劇、美術などの保護保存に尽くした。繁俊の親友
○俊雄の話に先々月あたりより志願者を募れる由、目下猛練習とあり、人間魚雷が最後の切り札なるべしと思わる。
☆註 10月のレイテ沖海戦(フィリピン沖海戦)、海軍神風特攻隊初出陣。この戦いは惨敗だったが、国内的には正確な情報は知らされていなかった。
○中原謹司氏の話に、来春1月が最も苦しき時にて、3月には今次大戦も目鼻がつくであろうとの事。
☆註 同郷の政治家 繁俊と共に 逍遥に師事しが後政治の道へ、
12月27日
早大へ久々にて行く。
○千駄ヶ谷の駅にては駅員が東部軍情報をメガホンにて伝える。「数編隊にて、中部にⅠ隊は侵入せり」と。空襲警報になりても代々木八幡まで行くと、敵機来襲となり、下車待避となる。
☆註 双発機は、2つのジェットエンジンを搭載したジェット機
○東京新聞の安藤鶴夫くんの話によれば、警報中の情報や発令をするのは、東部軍防空司令部においてで、そこに報道員が詰めきりで、必要に応じてアナウンスするのだと言うーージャーと言う前に、かすれたように、じゃあじゃあというのは、他の局(関係の地区内の)を呼び出すためだと言う。それで情報の前後人声もするのである由。
☆註 安藤鶴夫は戦後、小説家、演劇評論家として活躍
○この夜の敵は3機の由、鹿島灘の方面、関東の東北部を旋回して、東方海上に退去する由。
12月28日
午後1時30分、俊雄とともに薪の運び込みに着手するため、台所口におりしところ、4、5発、高射砲打ちしような音せしに、促して出てみたところ、飛行機雲を引いた明らかに敵1機、西方より東方に行く、しかも警報は何らなし。実に早き速力なりき。あれあれという中見えなくなった。
後にて思う、発砲の音はせしも、炸裂の白煙はどこにもなかったところから、先の音は高射砲ではなくて、爆弾投下なりしと思う、調布の飛行場か、工場か、いずれにしても15、 6町(2Km位)も隔たりし所の大音なりし。
この時の東部軍情報は、警戒警報発令せず、打ち込まれてから1時35分に一寸やりし由、3時20分にも繰り返して放送した。実に無責任のことと思われた。
○午後4時ごろに警戒発令、少数機の編隊2個来し模様、空襲警報となり飛行機雲を引きて見えた。が、5時ごろに警戒となり、まもなく解除となった。
○午後7時50分ごろか、8時ごろに警報出る。2機来襲、1機は鹿島灘より一寸侵入して海上に、他の1機は関東北東部を旋回の上、京浜地区を通過していく。照空燈に補捉され、高射砲にて打たれて、東方海上に去る。
9時30分頃に新しき1目標が東海上より来るにつき、なお警戒中との情報あり。
12月29日
午後8時25分警報発令、京浜地区に来たらず、伊豆半島より信越地方に行き、反転して京浜地区に入りそうになりて東北に向かい、旋回して鹿島灘あたりにいたり、海上に去るかと見えしが、京浜地区に入りて、焼夷弾を1部に投下して脱出した。
12月30日
午前1時ごろに発令、2時ごろに解除、午前3時30分頃にまた発令、京浜地区に入りて、焼夷弾を落として、高射砲鳴りひびきたり。空襲に至らず、この夜は都合3度まで警報出たるわけなり。
12月31日
年越しとあっておミキをいただき、大いにしゃべった。午後9時ちょっと過ぎに警報発令、ただし、少数機にて10時頃に解除となる。
《続く》
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