繁俊の日記から①/太平洋戦争最後の半年/昭和19年11月の記録
今年も8月15日の「終戦の日」が過ぎました。
敗戦の年は、繁俊は57歳。早稲田大学演劇博物館の館長及び文学部で教鞭をとっていました。
自宅は郊外の世田谷成城で、喜多見、狛江を見渡せる武蔵野台地の際で、周りは大根畑と雑木林でした。
現在は、3月10日の下町大空襲は取り沙汰されて人の口にも登りますが、それまでにも東京は何度も空襲を受け、3月10日以降も多くの人々が空襲を受けて殺される惨憺たる日々だったのです。
繁俊にとっても、何度も死を覚悟した終わりのわからない恐怖の毎日でした。これは東京だけではなく日本中、程度の差こそあれ同じだったのです。
市民の暮らしと戦争、歌舞伎界と戦争の、生々しく、貴重な記録です。俳優や劇界の著名人の名も多数登場し、あまりに貴重なので、長いですが、回数をわけて、上げていきます。
繁俊の日記は11月1日から書かれていますが、中扉に「空襲以後」とあるように、11月1日以前から東京への空襲が始まっていました。所々要約します。(☆註は私の註釈です)
昭和19(1944)年11月1日
前進座の1月興行(6日初日)の「元禄忠臣蔵」の稽古、附立とありて、午前10時に吉祥寺の前進座研究所に行く。大体終わって部分をやり直すこととして昼食になる。弁当を食べているうち警戒警報鳴りわたる。扉のあたりより外を見て皆々と話しをしていると、直ちに空襲警報になりしに、靴を穿きて外に出る。
○焼け残りし建物のほうに行く、防空壕に入れと言う、が、皆家族用のものらしい故、最寄りの松林の中に入る。森谷、加藤精一、杵屋依之助、杵屋某氏の4名とともに種々噂しあっているうち、前進座の人迎えに来たりしに、また立ち返りて完全なる防空壕の中に入る。やがて解除になり帰りたり。
○また言う、飛行機雲を後に引きて1機行き、その辺りに高射砲弾炸裂せし由、ただ1機偵察にマリアナ基地より来たりしもの。
☆註 高射砲は敵機を迎え打つ日本軍側の火砲
11月6日
☆註 NHK放送劇団の講師を務めていた。
11月7日
11月 24日
晴天、昼過ぎ警報、20分ほどして空襲警報になりたり。
3時ごろまで続く。この日、思い切って、地下室の設備をととのえる。
夕方清水虎雄氏へ「寺子屋」の件報告方々電話して、荻窪方面、大井方面に爆弾投下のことを聞く。近所にも高射砲を打ち上げたりき。
○原宿の漢方医の宅、青山南町5丁目、海軍館、東郷神社。
○中島飛行機を中心として、杉並、荻窪、東伏見など、久留米工場の4、5 丁離れしところ、小金井の文部省の練成所は90坪ほど破壊されし由。
11月 25日
警報の出ていたこととて、多数の集まるわけなしと思ったのに、三百人ほど、小さき心持ちよき講堂に程よくいっぱいになりおる。
11月27日
曇天にて、11時頃より小雨。
興行協会の論家競作とその審査会に臨み、レインボー・グリルに至る、村崎、渋沢秀雄、武者小路実篤と集まる。12時過ぎに警戒出る。すぐ前の東横ビルの地下つくば食堂に移り、食事を始めていると空襲になる。秦豊吉、那波先正氏らありき。
待避に入るや、地階の廊下に大勢の鉄甲(かぶと)にかためし人々。屋上の臨視所よりの報告と、軍よりの情報とが続々と伝えられる。
「雲の上より盲爆中ーー
「千葉方面を盲爆中ーー
「江東方面に煙上がるーー
「日本橋に落ちましたーー
「巣鴨、板橋方面に黒煙を見る等々。
3時に至りて静かになりて解除となるにつき、岡田、森田両家の婚儀のために、すぐ後ろの帝国ホテルに駆けつける。両家の人々は、1時前より来ていて、何回も1階へ待避せし由、式は予(☆私)の媒酌にて滞りなく終わる。
11月 29日
ドカンゞと打ち、10機団位やってくる、明け方の3時に解除となりし故寝たるところ、又々3時半に空襲発せられて大騒ぎ。
≪続く≫
0コメント