繁俊の日記から①/太平洋戦争最後の半年/昭和19年11月の記録

今年も8月15日の「終戦の日」が過ぎました。
敗戦の年は、繁俊は57歳。早稲田大学演劇博物館の館長及び文学部で教鞭をとっていました。

 自宅は郊外の世田谷成城で、喜多見、狛江を見渡せる武蔵野台地の際で、周りは大根畑と雑木林でした。
現在は、3月10日の下町大空襲は取り沙汰されて人の口にも登りますが、それまでにも東京は何度も空襲を受け、3月10日以降も多くの人々が空襲を受けて殺される惨憺たる日々だったのです。

繁俊にとっても、何度も死を覚悟した終わりのわからない恐怖の毎日でした。これは東京だけではなく日本中、程度の差こそあれ同じだったのです。 

 昭和20年のモンペ姿の珍しい写真
繁俊は、戦争末期の空襲の記録と、戦後のGHQとの歌舞伎に関する折衝についての手記を、ノートに綴っていました。

市民の暮らしと戦争、歌舞伎界と戦争の、生々しく、貴重な記録です。俳優や劇界の著名人の名も多数登場し、あまりに貴重なので、長いですが、回数をわけて、上げていきます。

中扉に、繁俊の字で「空襲以後」と書かれています。
東京への初空襲は、1942年4月18日、B25、13機による爆撃で荒川区尾久の民家、早稲田中学、水元国民学校など、合わせて41人の死亡が確認されています。その後2年半東京区部への空襲はありませんでした。 
しかし、ミッドウェイ、ガダルカナル島、マリアナ沖海戦、サイパン陥落、レイテ沖海戦と日本軍の惨敗が続きました。10月10日にはアメリカ軍の空襲で那覇へ米艦載機1400機来襲、爆撃と機銃掃射で死者225人、負傷者358人、那覇の9割が焼土となりました。
この日記が書かれた1944年11月頃には、日本全土がマリアナ諸島を基地にした、アメリカ軍のB29の攻撃可能範囲になってしまっていました。日本への「戦略攻撃」が始まったのです。

繁俊の日記は11月1日から書かれていますが、中扉に「空襲以後」とあるように、11月1日以前から東京への空襲が始まっていました。所々要約します。(☆註は私の註釈です) 


昭和19(1944)年11月1日 

前進座の1月興行(6日初日)の「元禄忠臣蔵」の稽古、附立とありて、午前10時に吉祥寺の前進座研究所に行く。大体終わって部分をやり直すこととして昼食になる。弁当を食べているうち警戒警報鳴りわたる。扉のあたりより外を見て皆々と話しをしていると、直ちに空襲警報になりしに、靴を穿きて外に出る。

 ○焼け残りし建物のほうに行く、防空壕に入れと言う、が、皆家族用のものらしい故、最寄りの松林の中に入る。森谷、加藤精一、杵屋依之助、杵屋某氏の4名とともに種々噂しあっているうち、前進座の人迎えに来たりしに、また立ち返りて完全なる防空壕の中に入る。やがて解除になり帰りたり。

 ○鶴蔵氏の話にて、近所に不発の高射砲弾落下して、2階屋を下まで貫きてタンスの上に落ちて、めちゃめちゃにせし由後にて聞く。
○また言う、飛行機雲を後に引きて1機行き、その辺りに高射砲弾炸裂せし由、ただ1機偵察にマリアナ基地より来たりしもの。

 ☆註 高射砲は敵機を迎え打つ日本軍側の火砲


 11月6日 

午前9時45分に警戒警報が出る。空襲にならぬ様子ゆえ、外出して興行協会に競作脚本を届け、昼飯を日本演劇社にて食べて、銀座の放送協会別館(☆註NHK)に行く。(12時15分に解除となりし事を聞く)。午後1時10分より3時20分まで「日本の演劇」についての講義をしたりき。夜に演舞場の吉右衞門を見る。 

☆註 NHK放送劇団の講師を務めていた。

11月7日 

午後2時開演の明治座八重子(☆水谷)を見て、東横の新国劇を見るつもりにて出かける。下北沢の乗り換え場にて警戒警報となる。朝日新聞社に劇評を届けたくはあったが、昨日は友軍機を誤認の警報なりし故、今日は危ないと思い引き返す。経堂まで来て、敵機見ゆるによりて、電車より降ろされ(これより前に空襲警報)、東側の森の中の壕に入る。そこを出てみると、キラキラと見事に白く光る敵1機、中央線と思われる上空を飛行雲を作りつつ西に行く。高射砲打てども届かぬ。まもなく敵機見えずなりしとて、電車発して帰宅。帰宅後妻にも帰りの敵機を見せる。ただ1機なり、偵察なりし由。晴天。
☆註 友軍機は日本側の軍機のこと
☆註  前年から朝日新聞の劇評を引き受けていた。


11月 24日 

晴天、昼過ぎ警報、20分ほどして空襲警報になりたり。
3時ごろまで続く。この日、思い切って、地下室の設備をととのえる。
夕方清水虎雄氏へ「寺子屋」の件報告方々電話して、荻窪方面、大井方面に爆弾投下のことを聞く。近所にも高射砲を打ち上げたりき。

 ○荏原区方面に爆弾多数落下、桐ヶ谷辺、大井町付近、北品川、品川台場、芝浦、死傷者200人とあり。

 ○原宿の漢方医の宅、青山南町5丁目、海軍館、東郷神社。

 ○中島飛行機を中心として、杉並、荻窪、東伏見など、久留米工場の4、5 丁離れしところ、小金井の文部省の練成所は90坪ほど破壊されし由。

 ☆註 この頃より本格的に夜間も市街地の空襲始まる。

11月 25日 

曇天、早大に行くと、11時半に警戒警報出る。本部に行ってみると、八丈島に敵機を認むとの情報わかる。昼飯を急いで食べた。空襲にならずに、2時頃解除となる。
それより神田、学士会館の清水氏の演劇研究会へ行き、夕食までおりたり。
「寺子屋」の定本を一応終わりし。なお文学報国会と読売新聞社主催の朗読文学会が6時より読売講堂にあるはずにて、2時ごろ電話せしところ、ありますとの事にて、学士会館よりそれへまわる。
警報の出ていたこととて、多数の集まるわけなしと思ったのに、三百人ほど、小さき心持ちよき講堂に程よくいっぱいになりおる。 
大抵は若き人々、女性も相当に多い。前田夕暮、尾崎喜八、水原秋桜子、是石以伸(☆?)、船橋聖一氏等ありて、予は「寺子屋」の丸本を読み喝采された。

 11月27日 

曇天にて、11時頃より小雨。
興行協会の論家競作とその審査会に臨み、レインボー・グリルに至る、村崎、渋沢秀雄、武者小路実篤と集まる。12時過ぎに警戒出る。すぐ前の東横ビルの地下つくば食堂に移り、食事を始めていると空襲になる。秦豊吉、那波先正氏らありき。

待避に入るや、地階の廊下に大勢の鉄甲(かぶと)にかためし人々。屋上の臨視所よりの報告と、軍よりの情報とが続々と伝えられる。

「雲の上より盲爆中ーー

「千葉方面を盲爆中ーー

 「江東方面に煙上がるーー

「日本橋に落ちましたーー

 「巣鴨、板橋方面に黒煙を見る等々。


3時に至りて静かになりて解除となるにつき、岡田、森田両家の婚儀のために、すぐ後ろの帝国ホテルに駆けつける。両家の人々は、1時前より来ていて、何回も1階へ待避せし由、式は予(☆私)の媒酌にて滞りなく終わる。


 ○この日爆弾落下せしは、日本橋、江東方面は精工社を狙いしものか、タバコ専売局、大手町の由、
市川市には大火災を生ぜしという。この日は、低空にて来たりし由。

11月 29日 

曇、小雨、夜に入浴後、寝につかんとせる11時に警報発せられ、20分後に空襲となる。
ドカンゞと打ち、10機団位やってくる、明け方の3時に解除となりし故寝たるところ、又々3時半に空襲発せられて大騒ぎ。
神田の駿河台より錦町、日本橋区本石町辺、茅場町付近などに焼夷弾ありて大火災ありき。
麻布の飯倉、有栖川公園などに被害あり、主として焼夷弾。空襲の初めに東京湾にて照明弾を打ち上げしとの情報ありたり。
 ○焼夷弾落下のときには、灯りがついてチラチラおちるがまことに見事の由。

≪続く≫






河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)