生きている黙阿弥!「新富座こども歌舞伎」鉄砲洲稲荷神社の賑わい

5月3日、歌舞伎座昼の部を見ました。憲法記念日で清々しい空の下、日の丸が風にそよいでいました。
5月は團菊祭で、昼は「極付(きわめつき)幡随長兵衛」夜は「四千両小判梅葉」が黙阿弥作品でした。
「極附幡随長兵衛」は「湯殿の長兵衛」と呼ばれますが、明治14(1881)年10月に書かれました。
明治維新後のこの頃、政府高官や官憲学者たちは西洋の劇場文化を日本に持ち込もうとして、演劇改良運動をはじめました。
江戸歌舞伎の代表作者であった黙阿弥は、矢面に立たされ、命令されたり馬鹿にされたり、耐えに耐えました。が、もう自分の居場所はないと思い定め、明治14年11月には自身の引退興行を新富座で行ったのです。この引退の前の月に書かれたのがこの作品です。
円熟の筆でさらりと書かれた上に、江戸っ子の極め付きともいえる、町奴の心意気が生き生きと描かれています。浴衣1枚何1つ防ぐものを持たない長兵衛に、家来を従えた旗本奴の水野十郎左衛門が命をくれと槍を構えます。
「いかにもあなたに差し上げましょう、兄弟分や子分のものが止めるを聞かずただ1人、迎えに応じて山の手へ流れる人もさかのぼる水野の屋敷へ出てきたは、もとより命は捨てる覚悟、、、。度胸の据ったこの胸をすっぱりと突かっせえ」
このときの黙阿弥のおかれた状況は、町奴と旗本奴の対立にだぶってみえます。プロの作者としての黙阿弥は心中を誰にも明かしたりしませんが、心の奥底から漏れ出た官憲への命がけのセリフと、私には思えます。そう思うと涙なしでは聞かれません。
翌月からは粋な名前の「河竹新七」から、もう何も言いませんともとれる、「黙阿弥」という僧名に変えて生きていったのです。この辺の黙阿弥の苦悩と秘めた抵抗心は「黙阿弥」(河竹登志夫著 講談社文庫、文春文庫など) に、詳しく書かれています。

今回の団十郎の長兵衛は粋でいなせな侠客で年格好もぴったり、死を覚悟した妻子との別れに、押し隠した悲しみが見えて身につまされます。黙阿弥の世話ものにはなくてはならない大事な役者さんです。これからが脂が乗った最盛期、たくさんの黙阿弥ものを演じてくださるのが楽しみです。

これは明治17年に演じられた九代目団十郎の長兵衛と初代左團次の水野。
豊原国周「湯殿の長兵衛」(国立劇場所蔵)

暗い劇場から1歩外に出ると、玄関前は人の波でした。鉄砲洲稲荷神社のコロナから6年ぶりの本祭りで、お神輿が次々と通ります。歌舞伎座も演舞場も氏子です。
歌舞伎座横に入って一休みです。揃いのはっぴを着るとみんなキリリといい顔つきに見えるのが不思議です。
歌舞伎座の正面右側にある歌舞伎稲荷大明神にもこの日、鉄砲洲稲荷の神主さんが来てお祓いの儀式があったようです。

黙阿弥が明治14年に引退した後、改良を目論んだ漢憲学者の作品はことごとく不入りでした。新富座に乞われて黙阿弥は「スケ」と言う立場で、亡くなるまで、実は名作を書いていきます。黙阿弥が活躍した新富座は、大正13年の関東大震災で消失してしまいます。

さて、今年の5月5日はその新富町から旗揚げした「新富座こども歌舞伎」が、地元の鉄砲洲稲荷神社で18年目の公演をしました。
「口上」から始まって、「寿式三番叟」と「義経千本桜 吉野山」。そしてご存知、黙阿弥作の「白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場」です。
平安時代に創建されたという鉄砲洲稲荷神社の塀には、氏子区域の17ケ町の提灯が掲げられています。
神楽殿より数段高い本堂の前が黒御簾、唄や三味線、お囃子は父兄や卒業生や近所の方たち。左横の藍色の着物を着た方が、拍子木や、お囃子のきっかけやリズムを取ったりで大奮闘のコンダクターです
「口上」は、小学5年生で見事なものです!
小さい5歳位の坊やが口上だね、あっ、忠信が通って行った!など、芝居通ぶりを発揮していてまずびっくりしました。兄弟の練習に一緒に行って、みているのでしょう。舞台前の真ん中あたりは、子供たちの見物席です。
「寿式三番叟」は、3、4年生の男女、衣装も美しく踊りもしっかり決まっています。
「吉野山」の5年生女子の静御前。
佐藤忠信は6年生。
この後2、3年生の男子5人の可愛い花四天の活躍ですが、私は立見でくたびれて、本堂の階段にちょっと腰掛けさせていただいて一休み。というわけで写真はありません。
さて、いよいよ「白浪五人男」です。三味線、長唄の新富座連中もご近所さんだそうです。
江戸のお上の御意向で、鎌倉稲村ヶ崎となっていますが、実はすぐ横を流れる隅田川の堤の設定。
待ってました!盗賊の一味が現れます。
2.3年生のかわいい捕手が後ろに並んでいるのがちょっと見えます。
3.4.5.6年生の男子女子入りまじっての五人男、名乗りも堂々たるものです。
フィナーレです。
黙阿弥が亡くなって去年で130年。黙阿弥の名さえゆかりの新富座、子供たちが1年かけて真剣に稽古を積んで見せてくれた見事な舞台でした。黙阿弥が喜んで目を細めて、見守っていることでしょう。
また来年はこの伝統を受け継いで、泰明小学校から晴海西小学校まで地域のたくさんの小学生が参加して、同じ演目を見せてくださるそうです。
お天気も良くて、見物の方たちも本当に楽しそうで、今はこの地域に住んでいる私まで、嬉しくありがたい気持ちで拝見しました。黙阿弥はたくさんの人々の心の中に生き続けているようです。(良)

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)