黙阿弥墓のこと/新設された黙阿弥モニュメント

5月6日、登志夫の11年目の命日に墓参しました。
下の随筆は2008(平成20)年に書かれたもので、河竹家のお墓の事についてです。


源通寺の詳しい沿革は墓所の入り口右手の碑面に詳しく書かれていますが、慶長15(1610)年、小笠原長高により外神田の東本願寺内に創建された、400年以上続いている由緒あるお寺です。その間移転を重ね、明治41年に浅草北清島町からこの地に移りました。
信濃の松本城城主小笠原家の歴史的な沿革を読むと群雄割拠した時代と仏教の密接な関わりが偲ばれます。
本堂の左横の中野区が建てた黙阿弥の墓所案内板です。
河竹黙阿弥の墓は平成6年に中野区の登録有形文化財になっています。家にその登録書がありますが、対象は「墓石」となっています。
案内版は令和5年に書き直されています。(教育委員会の書いた字の間違いなどがあったためです。)
随筆に出てくるモニュメントです。
モニュメントの右側面には、石に彫った登志夫の絵があります。あえて目立たないところにはめ込んだのは登志夫の粋な計らいですが、探さないと見えないので、「知る人ぞ知る」です。
登志夫の原画で字は良子。この絵は登志夫没後出版された「かぶき曼陀羅」の表紙にもなり、冒頭の随筆も所収されています。(2015年11月初版 演劇出版社刊)
このモニュメントの隣が河竹家墓地で、命日には、樒(しきみ)の香りがむせかえるようでした。
向かって右手前に「初代河竹新七墓」があります。
墓石、右側面には「明治43年6月下谷稲荷町南松寺より河竹黙阿弥長女糸當山に移し大正2年7月これを改修す」とあります。
黙阿弥は明治27年、二世新七改め黙阿弥になる時にも、百花園に「きょうげん塚」を建て初代へのお礼と供養をしています。ここにも義理堅い人格が偲ばれます。
右奥が「ニ世河竹新七事 河竹黙阿弥墓」です。こちらは黙阿弥の苗字「吉村氏」。
釈黙阿居士(河竹黙阿弥) 、妻琴、3人の娘たち妙、島、糸の一家です。

黙阿弥一家のお墓の左に南無阿弥陀仏と書かれた、「河竹家」の墓石があります。1940(昭和15)年に繁俊が建て、河竹繁俊、妻みつ、信雄(繁俊長男)、次男俊雄(登志夫)、勝芳(登志夫長男)が一緒に眠っています。

  

下の写真は黙阿弥没後60年記念「演劇界増刊号」(昭和18年12月)の掲載写真で、繁俊一家の台座も吉村氏と書かれています。
下の写真は関東大震災後の表札ですが、河竹事吉村とか、河竹実は吉村とか、ペンネームと本名がごちゃごちゃになって、いろいろな不便があり、昭和24年正式に改姓しました。
それでこの墓石の吉村氏を削って、今あるように河竹家と彫り直したそうです。
そして、黙阿弥や糸女の可愛がった太郎という名の猫の塚です。この猫については、いろいろな逸話がありますが、糸女の見事な字で太郎への追悼歌が彫られています。(2023.5.6、登志夫没後10年の日のブログに太郎のことを書きました。)
登志夫の好きなカエルの置物もけなげに門番をしています。(写真は掃除前…)
右隣の区画には、七世越前屋勘兵衛を継いだ黙阿弥の長男吉村市太郎家の墓所があります。黙阿弥の祖父、父母、姉弟、長男一家などが眠っています。(良)


河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)