切抜帳15より②読売新聞連載「食膳食後」トンぺイ最後の日 マクベスの魔女の釜他

1983年4月2日~11月12日、14回にわたって読売新聞に連載された「食膳食後」。タイトル通り、食べ物のエッセイです。昭和58年10月発行の単行本「酒は道づれ」に収録されています。

4月2日/「つくしを味わう」逗子の披露山でのつくしの季節のひとこま。富士山や江の島の景色もつくしも、身近にある時はありがたみに気づきませんでしたが、確かにそんな日もありました。登志夫がつくしとりをしたのはさて、生涯に何度だったか。2~3回ではないでしょうか。

4月23日/「トンペイ最後の日」トンペイという渋谷の名物飲み屋のこと、その他の通った店のこと。

5月14日/「いつもホロ苦い青春とカストリ」お酒の思い出は尽きません。このタイトル、単行本では「青春とカストリ」に変えています。

6月4日/「貸売は、今日九重に、お断り……」このタイトルは単行本では「しゃれた貼り紙」に。

6月25日/「私の頭が心配?牛をくわせる」こちらは単行本では「牛肉の効きめ」。長女が今日はビフテキと聞いて、くじらのビステキね!と喜んだという話は家族の間では何十回も繰り返された話題でした。いまはOGビーフなど、牛肉もだいぶ安く食べられますが、やっぱりいい肉はまだまだ高い。でも頭に効くのなら…。

7月16日/「エビ活造りに海老蔵さん『オッ』」海老にまつわる話三題。最後の海老の形の大きな木器は、登志夫が亡くなってから、少し損傷していたところを修理して、十二世團十郎夫人に寄贈?しました。

7月30日/「戦前の味 蒸鮨に舌つづみ」こちらは単行本では「失われた味」としています。昔懐かしい味について。

8月6日/「マクベスの魔女の釜」どうしようもない味のもの三題。とくに真ん中の、戦後すぐのシチューから万年筆の蓋や紙くずが出てくる話は、登志夫のたくさんの食べ物の話の中で最も気持ちの悪い話だと思います。


8月20日/「てんや物 今と昔」、最初のふたつの話は子供のネタ。とくに真ん中の話も何十回も思い出話として語られました。ここには鰻とありますが、子供たちはたしか天丼派だった気がします。逗子披露山には飲食店も店もなく、いまのように近所のコンビニやファミレスに買い物には行かれず、逗子駅近くの「うな藤」か披露山入口バス停前にあった「披露山食堂」でラーメンや餃子、この二択でした。

9月10日/「ボーボー燃やして 一期一会の味だった」真ん中のお話、子供の頃は登志夫がビフテキを焼くのが主流でした。新宿の路地に今もある「三日月」流の作り方。最後にフライパンに火を入れるのが、何度みてもわりと恐怖でした。やはり、その一瞬は登志夫も青筋をたて、眉間には皺が寄りますし。

9月17日/「ムムッ名は体を表さず」

10月1日/「構えると結果はみじめ」これは単行本では「ままならぬ釣果」。みじめ、、という言葉はちょっとニュアンスが違うかと。このタイトルは、新聞社の整理部か編集担当が新聞向けにつけていたのか?うちは家が大きかったので、お金持ちと思われがちでしたが、欲しいものをなんでも買える家ではありませんでした。食べ物もそうです。この連載のいたるところにそれを感じますが、もしかすると他人から見ると案外「みじめ」だったのかも…??

10月22日/「ビールを飲む灰色の猫ヤーイ」は舞台での食べ物「消え物」のこと、小道具のことなど。

11月12日/「酒ぞと思え 酔える徳利の水」水を酒と思って飲む話三題。これで最終回です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)