切抜帳15より①雑誌、新聞など谷崎潤一郎の魔性

雑誌「太陽」1983年3月号、特集・エリート教育の現場。変な特集タイトルですが、、。繁俊の教育方針のこと、そして自分の教育方針のことも話しています。最後の一文が、忘れられません。

こちらは週刊朝日2月25日号。菊屋というお菓子店の広告。

放送文化基金報。「ひとりごと」。登志夫が子供の頃、昭和5年の子供雑誌の付録の話から。未来の夢として「月世界探検」「ロボット」「テレビジョン」。テレビジョンの解説として「無線透視といい、遠方の出来事が映ります。やがて遠くの人の顔を見ながら話ができるようになるでせう」とあります。この3つ、100年足らずですべてクリアされているばかりでなく、遠くの人の顔を見ながら話せるし、手紙も即座に送れてしまう。。登志夫は結局、生きている間ずっと紙に手で原稿を書くスタイルを変えませんでしたが、最後は、キーボード打ちにしておけばよかった、と言っていました。そして、電子メールの仕組みは理解しないまま世を去りました。ネットで検索するとなんでも調べられることを言っても、誰が何のために無償でそういう記事を書いているのかが納得できないようでした。

10月31日東京新聞「私の一冊」。登志夫は谷崎潤一郎集を選んでいます。谷崎の初期の作品が好きでした。最初の歌舞伎のアメリカ公演の時に「痴人の愛」のナオミが似ていると書かれている、メリーピックフォードとビバリーヒルズの邸宅で2人でポラロイド写真におさまっていますが、感慨深かったはずです。

その他、夏目漱石の「夢十夜」「倫敦塔」もよく話に出てきて、ロンドンに行ったときには、寸暇を見つけて必ずロンドン塔に行っていました。

この文章に出てくる少年時代の愛読書の中のひとりは江戸川乱歩で、「人間椅子」「屋根裏の散歩者」等々、ほとんど読んでいました。晩年の乱歩に新宿の飲み屋であったことをどこかで書いています。
また、永井荷風の「ふらんす物語」の頃の甘美な文章にも魅了されていました。荷風は黙阿弥家に養子に入りたいと人を通じて言ってきた人でしたので、もし入っていれば、登志夫は荷風の子供だったかもしれません。
子供の頃は虚弱で、病床で本を読んだり、絵を描いたりの毎日でしたが、三つ子の魂というか、読書と絵を描くことは登志夫の人生の伴走者になったように思います。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)