切抜帳14より③劇場プログラム寄稿    歌舞伎は生きている アメリカグランド歌舞伎

1982(昭和57)年1月国立劇場プログラム。『弁秀と吉三(吉様参由縁音信/きちさままいるゆかりのおとずれ)』の通し上演時。この作品、この文章によると、明治2年にお七吉三ものの書き替えものとして五代目菊五郎の吉三で初演され、「不評」とされましたが、「続々歌舞伎年代記」には、「評よし」という記載もあるとのこと。

登志夫は、「だが、やはり大名作とはいえまい。ところどころに光ところや、天人香のような新趣向はあるが、所詮趣向本位に堕しがちな書替え狂言の通弊をまぬがれてはいない。いや、書替え狂言がかならずしも駄作などというわけではない。(中略)ただ、おなじ書替えでも、作者の個性が十分に発揮されて一個独立の創作劇としての価値をもつものと、単なるパロディーにすぎないものとの区別はおのずからある。」と、書替え作品の評価基準のようなことを書いています。

その後、この作品は大正7年に初代吉右衛門の弁秀によって息を吹き返し、十五代目羽左衛門や六代目菊五郎の吉三を相手に演じられ、この国立劇場での上演は、昭和29年の十一代目海老蔵の吉三、松緑の弁秀以来、28年ぶりの上演だったということです。それ以来、、、今まで上演されていません。



4月新橋演舞場新装開場記念パンフレット。

演舞場4月プログラム。面白いエピソードが書いてあります。確かに、弁天小僧が浜松屋で見顕しの時、すね毛がびっしりだったら面白い…。

8~10月前進座公演プログラム。瀬川如皐の人気作品『切られ与三郎』の書替えである『切られお富』。この作が作られたのは天保の改革で歌舞伎の生世話物のエログロを「濃くなく」せよというお達しを受ける2年前、血糊をたくさん使った場面があったようです。坪内逍遙が明治はじめ頃名古屋で見ていた『亀山仇討』『切られ与三』『佐倉宗吾』の磔場面の流血シーンのことなど書いてありますが、現代にこういう演出があったらやっぱりちょっと…いやかなと思います。

9月歌舞伎座プログラム。アメリカ公演に随行しての、なんと8ページにわたる報告。この時はレーガン大統領訪問などもあり、ずいぶん盛り上がったようです。

10月歌舞伎座プログラム。『都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)』(通称・忍ぶの惣太)上演にあたって。この作品で、黙阿弥は四代目小團次の信頼を得て以後小團次が亡くなるまでコンビとして名作を生みだします。なぜ信頼を得たか、というエピソードがここに書いてあります。登志夫は『作者の家』その他でこのことはもっと詳しく書いています。

10月前進座劇場完成記念パンフレット。この年に開場し、2013年1月に閉館、登志夫が亡くなる4か月前です。

翌年1983年1月浅草公会堂プログラム。浅草歌舞伎の4回目。今は恒例となっていますが、恒例になってきた、という頃です。浅草と黙阿弥との深い関係についての短い文章です。

1月、歌舞伎座子供歌舞伎教室30周年記念プログラム。繁俊も、登志夫も、歌舞伎座で本興行の前に行われる子供歌舞伎の解説を長く勤めていました。繁俊の頃は月一回、都民劇場の主催で行われていましたが、現在はずいぶん回数が減って不定期になっているようです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)