切抜帳14より① 登志夫のごはん 男と女のクッキング 東京下町のお雑煮など

1982年1月「サンデー毎日」の「わが家の料理」。逗子に越して10年くらいの頃。お得意の刺身姿造りその他を振舞っています。色々な雑誌、新聞の料理のコーナーに写真入りで登場したので、今見ると、逗子に住んでいた頃の台所や、登志夫の作った料理、登志夫と良子夫婦が一緒に台所に立っていた姿、使っていた食器など、色々懐かしく思い出されます。白黒のページでも、登志夫のこのトレーナーはベージュのような色だったな、とか。取材のあとは、これを記者やカメラマンと一緒に食べます。2階の子供部屋にいても、楽しそうな笑い声が絶え間なく聞こえたものです。食材費の方がギャラより高かったのではないかと思いますが、そんなケチなことは一度も聞きませんでした(笑)。暇なく仕事をしていましたが、こういう時間は惜しみませんでした。

こちらは東京新聞で連載。「男と女のクッキング」。こちらは、この通りに作ればおいしくできるイワシの揚げ物。

刺身の活けづくり、海外公演のとき、刺身とうしお汁を歌右衛門さんにお分けしてほめてもらった話は、生涯にわたり、ずいぶん色々なところに書いたり話したりしました。

このいかの姿焼きもおいしかった…、ワタのつけ汁の濃い味…もう一度食べたいものです。

鶏をまるごと買ってきて余すところなく食べつくしたバーバード大学留学時の話もよく聞きました。一緒に晩御飯を食べる時など、色々生活に必要な雑学を聞いた気がします。たとえば、この記事の下の方に、登志夫が赤字を入れていますが、鶏のスープは湯気が出ていなくても、それは脂でふたをされているからで、とても熱いから注意するように、とか、牛乳を鍋で温めるときは突然ブクブク沸騰するとか。これを食べたら危険という基準みたいなこともよく聞きました。納豆は糸が引くうちは食べても大丈夫、というのを信じて、賞味期限は気にしてきませんでしたが、納豆は一か月以上たっても糸を引きます。信じて食べてきましたが、おなかを壊したことはありません。ヒトに言うと驚かれますが…。

しかしこの、詰め物を沢山入れたスープは、糸でとじたり手間がかかるためか、ちょっと登志夫が作っていたのを見た記憶はありません。一度くらいあったかどうか。これは母良子が引き継いでよく作っていました。戦後すぐの留学生活での倹約、栄養たっぷりの我が家の味でした。

「ミセス」の正月号。うちの雑煮。いつも登志夫はお餅を3つか4つ。良子や子供たちは2つ。おとそを登志夫が作ると決まっていました。箸の袋にそれぞれの名前を書いて、登志夫が改まった雰囲気で新年を寿ぐ言葉を始めますが、いつも誰かが途中で口をはさんでワイワイとなってしまうのが常でした。

下の文章では分かりづらいと思いますが、登志夫の母は日本橋生まれで、良子は深川生まれ、細かい差はありますが、習慣や考え方は似ていたようです。

こちらは、この切抜帳の後ろのポケットに挟まっていたお客様に出した献立表。登志夫は、お客様が来る前にこんなふうに手書きで書いて、人数分コピーしました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)