切抜帳11より⑦終戦間近の「笹の実列車」他

1979年7月27日号の「週刊民社」に書いた「笹の実列車」。この頃存在した政党の機関紙です。終戦(敗戦)記念日が近いことで、この内容になっているのでしょう。この随想はのちに単行本「幕間のひととき」に収録しています。「笹の実」は、食糧がない戦中の代用食のようなもので、配給でも不評だった代物のようです。東大時代、信州に疎開したものの、疎開した先にも食べ物はなく…。とても切ない内容です。ちょうど今日は78度目の終戦記念日です。

登志夫は戦前、戦中、戦後を体験し、戦争・平和・命に関してはたくさんの思いがありましたが、それはいまも著書やこうした随想で知ることができます。子供たちにとっては、戦争はずっと昔の歴史上のことに感じたものでしたが、長ずるに及び、20年、30年前というのは、ついこの間のことだとわかってくると、登志夫の体験が生々しくリアルに感じられるようになりました。あと少し戦争が長引けば出征していたかもしれない父・登志夫や、東京大空襲で焼け出されて、新潟の雪深い山奥、字平丸村での小さな納屋でひもじい生活をした戦中生まれの母・良子のことを思うと、太平洋戦争はとても身近です。良子の父・猛は日中戦争から長期徴兵されインパールまで行き、終戦後は捕虜になりすぐには戻って来られませんでした。家業を守り東京深川に残って、B29 の下を子供を抱えて逃げ惑った祖母、それぞれの様々な苦労話をたくさん聞いています。おかげで、ささやかな日常の平和がなによりだと感じられます。

下の写真は、東大物理学科2年生の登志夫。1944(昭和19)年、富士裾野の野営演習にて。中列右から3人目。

こちらは国立劇場プログラムへ。「村井長庵」上演にあたり。

こんな仕事もしていました、ということで、カルチャーセンターのちらし。

歌舞伎の美術を手掛けた田中良著「歌舞伎定式舞台図集」再刊への寄稿。登志夫は田中良先生に絵を教えていただいたことがあると書いていますが、その時、「君のはこの輪郭の線が気に入らねんだよなア」と言われたことをどこかの随筆に書いていました。

こちらは青年座「盟三五大切」公演プログラム。南北とその時代。

このときの公演を登志夫と一緒にみた良子は、まだ育ち盛りの子供たちがいて前夜寝不足で、逗子から遠路上京して登志夫と劇場の席に座ったときには、悪いけれど、寝かせてもらおうかなと思ったそうです。そしてこんな感想を…。

「ところが、生涯で最も心を揺さぶられ、忘れられない舞台でした。普通の歌舞伎の演出では、同じ時間に起きたことを同時にはできないので、1幕目2幕目として演じますが、この時は舞台を上下に分けて、2つの事柄が同時進行なのです。

忠臣蔵秘話と言える世話物で、仇討に加わるための百両をめぐる不破数右衛門の物語です。その百両を調達するために、それぞれが愛する人のために、策略を尽くし、だまし、殺し、自害する、すさまじい話です。

騙している相手が、実は自分が助けようとしている人とは知らずに起こる悲劇なのです。それが同時に演じられるので、起きてはならないことが次々に起きていくことが目の前でありありと見られるのです。

武士道に忠実に生き、愛に忠実に生きようとした人々の悲しい話です。生身の人々の演じる演劇の力に本当に感動しました。」

こちらは式典での記念講演のちらし。繁俊と同郷の須磨子、抱月の家に書生として住んでいた中山晋平についての講演。

こちらは以前にも出しましたが、「週刊文春」1979年11月15日号「私の結婚」。結婚15年たった頃、夫婦のなれそめなどを語っています。写真は結婚したばかりの頃、成城の家の離れの前で。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)