切抜帳11より⑥滞欧日記から/11回目~15回目 異郷できく人の死
11回目は「異郷できく人の死」。滞欧中亡くなった知人友人のこと。早く亡くなった方、先輩方、また、逗子の御近所さんだったお宅の高校生の息子さんのことなど…。登志夫54歳。最後に、年々物故する知人が増えるのは、自身が死の射程圏内に入っているからだ、として「この世に絶対なものはただひとつ、時のながれだけである」と締めくくっています。
12回は「外地で校歌をつくる」。この件は、6月4日のblogに写真とともに上げています。
13回目は「ウサギを売る市場」。市場はその国の食生活や文化がよくわかる場ですから、どこの国でも観光地のようになっているものですが、ウィーンにはウサギがあったそうで、、。
14回目は「レマン湖旅情」。子供ふたりを連れて、スイス旅行をしました。その風景にことよせて、戦中の淡い恋心のことを書いています。
すてきなレマン湖のほとり。
最終回・15回目は「星の夜の舞踏会」。趣味のダンスの話。最後に、「この子らはまたこの都に来る日もあるだろう。それはもう私とではないかもしれない。が、それなら猶更、ちゃんとしたダンスでも教えておいてやろうね」と書いています。子供の時、「1,2,3、1,2,3」と、食卓のある板の間で嬉しそうな登志夫と踊った思い出があります。次女は夫婦で数年前に訪れましたが、ダンスをすることはありませんでした。登志夫が生きていたら、三人で暮らしたアパートに行ってきたよ、と伝えたかったなと思いながらの旅でした。
子供たちには何も要求せず、支配せず、こちらが助言を求める時には惜しみなく与えてくれる、頼りになる存在でした。
ウィーンのクリスマス、クリストキンドルマルクトではクリスマス用品やお菓子の屋台が出ます。綿あめを買ってもらった子供たち。
ウィーンでは洗濯機も掃除機も無く、多分あまり綺麗な暮らしではなかったですが、「そんなことで死にゃあしない」という登志夫の言葉通り、元気に帰国できました。
こちらは、同じ切抜帳⑪より、「銀座百店」1979年12月号への寄稿で「ウィーンのクリスマス」。クリストキンドルマルクトのことも書いてあります。
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