昭和53年/三代目猿之助(二代目市川猿翁)さんと対談(前編)

昭和53(1978)年、オーストラリア公演の手帳をご紹介しましたが、これは、同じ年の「おもだか」(三代目猿之助さんの後援会の会報)夏号と秋号に掲載された、登志夫と猿之助さんの対談です。登志夫は、昭和36年の訪ソ公演の時に團子時代の猿之助さんとウマが合ったようです。この対談では、猿之助さんが前年ロンドン・アメリカ・カナダを巡演しており、海外公演の時の観客の反応や、どんな演目がうけるかなど、話し合っています。猿之助さんは、『四の切』よりも『黒塚』がうけたこと、登志夫はこれまでの経験から『隅田川』や『俊寛』『忠臣蔵』がうけて、『車引』『道成寺』『勧進帳』がよくなかったと言っています。

この時登志夫は、すでに昭和35年のアメリカ公演、翌年のソ連公演、40年のヨーロッパ公演に同行していましたが、まだまだ海外公演は手探りの時期でもあり、今後さらに海外で歌舞伎が好評を得るために、どんな演目を上演すべきか、皆が考えていた頃でした。


河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)