5月の黙阿弥作品

今月の歌舞伎座は團菊祭。夜の部で「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」が上演中です。
菊之助の新三です。
ロビーには10年前亡くなられた市川団十郎さんの写真が。生きて活躍されていたらと思うと、本当に残念です。
「梅雨小袖昔八丈」の絵看板の、縛られているお熊が着ている着物が、お芝居の題になっている黄八丈です。八丈島で織られた、当時大変高価な着物で江戸で大流行したものです。実説(享保11年、1726年の事件)で、日本橋の美貌のお熊が、密通と夫殺害未遂で江戸市中引き回しの上獄門となった時に着ていた着物です。白無垢の襦袢、中着の上に黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首にかけて、裸馬に乗せられていたことで、大変な話題になったそうです。
「梅雨小袖昔八丈」は、明治6年(18 73)、黙阿弥が58歳の時に書いた生世話の名作です。
幕末に政府が出した、生世話物取り締まり勧告(万事濃くなく、色気などもうすく…)を知って憤死した小団次。小団次にあてて書いた下層社会のどす黒い世界から、同じ生世話でも、いなせな美男子、五代目菊五郎のための、ぱっと明るく透明な様式美の世界へと変化しました。東京布達での明治政府の意向(史実第一主義、教条主義、濡れ場殺し場等生世話場面の淡白化)に従いつつ、自分の得意の世界、独自の境地は決して崩さず、新しい時代への適用の可能性を用心深く探っている作品です。」(「名作歌舞伎全集第11巻」登志夫解説より略述)
初演した五代目尾上菊五郎の髪結新三
こちらは香朝樓歌川国政錦絵に描かれた五代目菊五郎の新三です。
幕末から明治にかけて、黙阿弥の親友の金谷竺仙が中型染物をはやらせて、舞台で役者も着たりしました。この錦絵は当時の粋な着方で、首には豆しぼり風な手ぬぐい。紬の着物の下に藍染浴衣、博多の角帯。小悪党のちょっと崩れた下町風のかっこよさがありありで、お熊が惚れたりしないか心配したと言う当時の劇評もある位です。
ちなみに、上の歌舞伎座の今月の絵看板の新三は、浴衣を2枚着ているように見えます。流行の着方だったのでしょうか。
2代目尾上松緑の新三。黙阿弥のト書きには「誂えの端唄になり、花道より新三好みの鬘、房楊枝を頭へさし、単物(ひとえもの)、三尺帯、下駄がけぬれ手ぬぐいを下げ、湯上がりのこしらえにて出てきたり」(房楊枝は歯ブラシ)
この当時は有名どころの手ぬぐいで浴衣を作るのが流行っていて、深川の門前仲町の料理屋「ひら清」のものは絶対入っていなくてはいけないものだったらしいのです。



明治26年豊原国周の役者絵 深川閻魔堂橋の場。新三は五代目尾上菊五郎、弥太五郎源七は初代市川左団次。
新三は格子縞の浴衣の上に藍染の着物、弥太五郎源七は毛皮を羽織っている。これはこの作品が描かれた前年に断髪に関連して、高級品のラッコの帽子が流行、明治6年には狐やウサギなどのえりまきが大流行したのだそうです。(田辺真弓、日本家政学会会議録、2007年)、台本には書かれていませんが、舞台の上では明治の風物や流行をいろいろ取り入れて演じていたのでしょう。生世話は当時の現代劇でしたから。
豊原国周錦絵。お熊の黄八丈。新三は渋い薄鼠いろの細い縞の浴衣と濃紺の単(ひとえ)の着物の取り合わせが本当に粋。

1983年4月の歌舞伎座プログラムに登志夫が「小悪党の世界」と言うエッセイを書いています。ちょっと紹介しましょう。
「、、、新三と言う男が、大いに悪がっているものの、どこか気が良くて間抜けで、大ポカをやると言う憎めないやつだからであろう。ここに小悪党のポイントがある。新三は弥太五郎源七に対しては、めっぽう強く、威勢がいい。「親分風が気に食わねぇ。これが車力の善八さんが訳を行ってもらいにくりぁただでも娘を返してやるが、強い人だから返されねえ」悪人ながら、どうして胸のすく天晴れなタンカだ。権威らしきものへの無邪気なつっぱり、下町ッ子の意地。見物衆は誘惑の罪を憤るどころか、ここではこの新三兄ィのつっぱりぶりにヤンヤヤンヤとよろこんだに違いない。ところがその得意も束の間、後から乗り込んできた家主の老獪な脅迫にあうとひとたまりもなく降参し、三十両の安値で女を取り戻された上、半分の十五両とかつおの半身をごっそり持っていかれてしまうという、だらしなさ。そのかつおも、ついさっき、大層粋がって三分と言う大金(米価で換算すると二万円近い)で一本丸ごと買ったばかりの初がつおなのだから、こんなばかばかしい話は無い。どう見ても、憎めない奴である。」

こちらは「名作歌舞伎全集 第11巻」(昭和44年9月発行東京創元社 解説、校訂河竹登志夫)。

河竹繁俊編「黙阿弥全集」(大正13から15年春陽堂)を底本とし、これに河竹家所蔵の上演台本を参照しつつ、誤記誤植の訂正や用語の統一を図っています。
「髪結新三」「弁天小僧」「河内山と直侍」「御所の五郎蔵」「縮屋新助」が収録されています。
各演目ごとに解説が詳しく書かれています。
お芝居を見る前や後に台本を読むと、掛け言葉やダジャレなど、当時の洒落が今はわからないことも多いのですが、この芝居の中の傘づくしや板づくし、地獄づくし、この時は黙阿弥がよほど機嫌が良かったのだろうと言われている位、いろいろな掛詞などが盛り込まれていて楽しいです。

先日私のお友達が、浅草で買い物をしたときに、そこの職人さんが、着物の下に浴衣を着るのが粋で、「浅草では今もそうやって着るよ」と言うのを聞いたそうです。えっと思いました。子供の頃(昭和2、30年代)深川に住んでいましたが、そういう人を見たことがなかったし、深川不動前で呉服屋さんを長年やっていた友達に聞いても知らないといいます。
ところが新三の錦絵を見ると、浴衣、手ぬぐい、などが大流行りで、目が開かれました。浅草では、今でもそういう着方をするのですね。
この芝居の初演は浅草の中村座でした。舞台は深川でも、ファッションなど流行の発祥は浅草で、それがまだ色濃く残っているのかなあと思ったりもしました。そういえば、黙阿弥が竺仙に出した手紙に染め物が大はやりめでたいと書いてあったことなどを思い出しました。
これは、家にあった黄八丈の着物と、竺仙さんが柴田是真の浴衣の模様で塩瀬に染めて作ってくださった帯です。黙阿弥の白浪作者による白浪の絵柄です。今月のお芝居にちなんで着て行くつもりで出しておきましたが、当日土砂降りでやめました。
今月はそんなことで着物の事にばかりに目がいってしまいました。
肝心の今月の菊之助さんの図太い声の大人の新三のことを書くことが出来ませんでした。とても素敵でした。これからも五代目菊五郎以来のお家芸として大切に演じていってくださることでしょう。 (良)


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)