登志夫、没後10年

登志夫が2013年の5月6日に亡くなってから、今日で10年がたちます。黙阿弥は今年没後130年を迎えました。中野の源通寺にそれぞれお参りして、一応節目なので家族で食事でも、ということで集まれるメンバーで集まりました。
今年は歌舞伎座新開場10年の興行をしています。登志夫は新開場の手打式に狂言名題を読み上げて一ヶ月半ほどで亡くなりました。そのお役目がなければもうすこし早く亡くなっていたかも、と思うほど、そこに合わせて整えていました。
その任を果すと、急速に体調は悪くなり、数週間の入院の末、家族に託していた「延命治療御無用」という書面の通り、緩和ケアを施してもらい、最後の日も良子と電話で会話して数時間後に亡くなりました。家族は最後の瞬間には立ち合えませんでしたが、連休だったので、前日まで毎日みんなですごし、「今日もこれから賑やかなのが来るな」と思いながら亡くなったことでしょう。
登志夫が亡くなってから10年の間には登志夫の孫娘が結婚し、別の孫娘や孫息子は留学したり、コロナで帰国したり、家族同然のペットたちが死んだり、昨年は次女の夫が世を去りました。生きている者はみな10歳年をとりました。色々なことが移り変わり、いいことも悪いことも、明日のことは分からないものです。

これは、河竹家の墓所内にある猫の墓です。黙阿弥や糸女の可愛がった猫のものです。明治19年1月2日に亡くなりました。墓には「十九年わづか二日の初夢を 見果てぬ猫の名も太郎月」という糸女の手蹟による句が刻まれています。

この猫のことは糸女が『黙阿弥』伝中にこう書いています(登志夫著『作者の家』より)。

「この太郎が人様にお話するのもをかしい程贅沢な奴でして、鰹節などで御飯を食べたことは先づありませんでした。魚も本場ものと場違ひとを食べ分けた位です。魚河岸の尾張屋(尾寅こと服部長兵衛)さんのお話に『河竹へ魚をやるんなら場違ひをやつて呉んなさんなよ、太郎猫に嫌はれると外聞が悪いから』と若い者に気をつけさせるのだとおっしゃってでした。何しろ本場ものの新しいのだとぺろぺろ食べますが、通常の魚屋の店にあるものなどは、てんで見向きもしませんでした。」


遺骨が入っているのか、碑だけなのかは、そのころからお寺と一緒にお墓も移転しているので、わかりませんが…。

登志夫は墓参りには熱心ではありませんでした。寸暇を惜しんで仕事をしていたので、「生きている者は、亡くなった者のために時間を使うより、その分懸命に働いて成果を出すのが孝行」というような考え方でした。死後の世界への考え方は本当に色々で、それぞれなるほど、と思いますが、亡くなってしまったら、登志夫の言っていたように「無」、ではないでしょうか。遺された者たちの心の中、思い出の中にしか存在しません。登志夫にももう10年会っていませんが、懐かしい思い出は色あせることがありません。

2006年6月、人形町玉ひでで。軍鶏鍋コースを食べた後、締めの親子丼。良子への土産にニワトリとたまごの形の箸置きを買って帰りました。この白シャツは良子がセールで100円で買ったものですが、本人とても気に入っており、よく似合いました。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)