黙阿弥14歳、早熟な大江戸の若旦那②父は堅物母は武家の出
「道楽者を父に持った倅(せがれ)にかえって財産持ち(しんしょうもち)ができるという例も少なくないが、四代目の勘兵衛(幼名 市三郎)、すなわち黙阿弥の父がやはりそうであった。父は天明元年の生まれで、ごく堅人(かたじん)で、道楽の道の字はどう書きますと言う位、実子ながらも祖父とはまるで性格を異にしていた。口重(くちおも)で几帳面な人物であったという。そして三代目の傾けた家運を盛り返したのである。後年黙阿弥が仮名垣魯文に書き送った履歴書に、父勘兵衛は湯株を多く待ち、この売買を家業となすと書いている。」(繁俊著「河竹黙阿弥」より)
繁俊による三代目が道楽で傾けた家運を挽回した家業とは、湯屋の株(営業権)の売買と、営業不振の湯屋を引き受けて、繁盛するまで経営して転売するというものだったようです。ただ株の売買をするだけなら、帳場に座っているだけでいいでしょうが、傾いた湯屋を繁盛するまで経営して転売すると言う事業は、現場に通い建物の改築をしたり、人手を確保したり、宣伝をしたりと実務家で働きもので人からの信用がなければできません。
笠原五夫著「東京銭湯三国志」には、「黙阿弥の生まれた1800年代、湯屋株の譲渡価格は300〜500両、高価なものは1000両しました。当時庶民は家風呂を持っていなかったため、湯屋は実入りが大きい商売として魅力があった。しかし湯屋株数は523と決まっていたため、それを仲介する商売も成り立っていたのだ。」と書かれています。いろいろな計算の仕方がありますが、大体1000両は1億2000万円位でしょうか。「多く持ち」と書かれていたところを見ると、大変な財産持ち(しんしょうもち)だったようです。
葛飾北斎「冨嶽三十六景江戸日本橋」
橋の欄干がほとんど見えないほど多くの人々が往来する日本橋の活況を描いています。
歌川広重「東海道五拾三次之内日本橋朝の景」
水路と陸路の中心地にあり、日本橋周辺一帯は文化の中心でもありました。
赤丸印が黙阿弥の生まれた式部小路です。
湯屋は当時の江戸が土埃りがひどく、家風呂は基本禁止なので必要不可欠でした。江戸初期の頃の湯女(ゆな)などは姿を消して、この頃は庶民の憩いの場になっていました。錦絵中央の階段(男湯のみ)を上っていくと休憩所になっていて、落語や講談が聞けたりもしたようです。左の女性は浴衣で汗をとっていて、入ってくる右の女性は浴衣を抱えています。
背景の街の賑やかな様子と湯上がりの色っぽい美女たちです。
父が二十代にした最初の結婚では、長女清(きよ)と長男(夭折)をもうけましたが、不幸にも妻に死なれてしまいました。この清がまだ5歳で、人並み外れて気難しく疳(かん)の強い子供だったので、もし気性の強い継母がきたら不憫と、4、5年は再婚をしませんでした。
ここへ、仏様のように優しい心立(こころだて)のものだからと、保証する人があって迎えたのが後妻のまちでした。まちは夫より4つ年下天明5年の生まれで、士分(江戸時代の武士階級)の出でした。
黙阿弥はこの後妻、まちに生まれた第一子で父は36歳、母は31歳でした。祖父の幼名が由次郎で、父が市三郎であったので、組み合わせて芳三郎(又は由三郎)と名付けられたものでしょう。
「黙阿弥は町人と士分の女との間に生まれた子で、祖父の通人肌のぜいたくな江戸っ子気質と、父の質素にして堅固なる性質と、母の物やさしい心だてとを自然に伝承する位置に置かれたのである。果たせるかな、黙阿弥の生涯を貫く要素は、この三者を合したものであった。」と、繁俊は述べています。
次回は、レジャーランドのような日本橋界隈と、黙阿弥が生まれ落ちてから14歳までの状況をたどりましょう。
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