楽しい蟹助さんちの忠臣蔵料理

竹柴蟹助さんと登志夫です。
出打ち出演中の蟹助さん。この粋な姿!
「蟹助さんこと古賀義一少年が、私(登志夫)の祖母ー黙阿弥の長女ーのもとへ入門の挨拶に見えたのは大正6年、数えて14歳だったと言う。ちょうど私の母が、まだ江戸の生活の残るこの作者の家に嫁いできた年だが、その母はいつも蟹助さんについて「作者の中であのくらい物堅くて信頼できる人はない」と言っていた。(中略)
しかも、当然ながら、その温容に秘められた、仕事のきびしさ、俊敏さ、めざましさ。私も昭和36年の訪ソ公演に同行したとき、この異国にあってもたった1人で複雑な舞台進行いっさいを、事もなげにこなしていく練達の腕前に、目を見はったものだ。それはまさに名人芸であった。」(昭和62年度吉川英治文化賞の受賞を喜ぶ。「狂言作者 竹柴蟹助」私家版より)
竹柴蟹助さん(明治37年12月28日〜平成元年8月4日)の生い立ちにはびっくり。
「狂言作者  竹柴蟹助」の「私の先祖は忠臣蔵」によると…
「(蟹助さんの祖父)古賀市左衛門は幕末の時代に広島の浅野藩の250石取りの旗本。その市左衛門が家中(かちゅう)の腰元と深い仲になって、密かに情を通じていたのである。それが藩主である浅野公の耳に入り、どうにもならなくなった。不義はお家の法度(はっと)といって、両人ともお手打ちになるところだったが、奥方が非常に情け深い人で、「裏門」から密かに逃してくれたのである。(忠臣蔵の原作には、今は出ない「裏門」と言う場もあった。)
そして2人は広島から大阪へ落人の身となったのである。その間の事情はよくわからないが、とにかく大阪へたどり着くまでは、田舎芝居の落人であった。そして浪人の身のなすこともなく、町人となって傘屋を始めたのである。全くお芝居の忠臣蔵そのものである。その後、市左衛門は道頓堀で芝居茶屋「難亀(なんかめ) 」という暖簾を上げて営業していた。その頃は黒門と言うところに住んでいて、市左衛門に息子(蟹助さんの父親)がいて、近所の遊び仲間の11代目仁左衛門さんが竹馬の友だったそうだ。その父親が東京に出て、下谷ニ長町で「登々家」(ととや)と言う料理屋を始めたのである。すっかり歌舞伎に凝っていて、その店の看板が義士料理。その裏には先祖が浅野の家来であったことが頭の中にあったからである。」
それが大正4年12月で蟹助さんが数えの12歳の時だったようです。
続きは同書より、いよいよ忠臣蔵料理の中身です。

「(蟹助さんの父は)営業と言うよりも、多分に道楽が手伝っていて、毎日を楽しんで暮らしていた。何しろ、朝起きてから寝るまで、忠臣蔵の趣向ばかり考えていた。何か名案でも浮かぶものならすぐ実行に移す性質(たち)で、子供の私をつかまえて得意になって話すのであった。
また3月15日の松の廊下つまり発端、12月14日は討入り当日で、この日の客には粗品を差し上げることになっていた。他に討入りの日はみかんを、これは堀部安兵衛が本所の蕎麦屋の2階で勢ぞろいした時、義士にみかんを配ったと言う実説にならったもの。
それから記念日の朝には、父を始め店のもの一同(総勢14~ 5人)で人力車を連ねて芝高輪の泉岳寺へ参詣に行くのである。何しろ、下谷の二長町から芝の泉岳寺まで、人力車で飛ばすのであるから、どんなに早くてもざっと半日がかりになる。今考えると誠に悠長な時代であった。」(義士料理繁盛記そのニより)
この店は震災まで続きますが、開店2年後、14歳の時、蟹助さんは作者道に入りました。その年父親の死に遭ったからです。
いろいろな経緯から黙阿弥の弟子の狂言作者、竹柴晋吉に入門します。この晋吉の家が本所の松坂町の吉良の屋敷跡でした。当時は「平野家」と言う大きな鳥問屋で、その商売の傍ら狂言作者をしていたのです。蟹助さんは、師匠の家へ行くたびに吉良邸跡の標識を見て、ここであの有名な義士の討入りがあったのかと、ひどく感慨にふけったそうです。生まれも育ちも、何かと忠臣蔵に縁があったようです。
蟹助さんは狂言作者として人生を全うしますが、永井荷風の日記に登場したり、勘亭流の第一人者になったり、とても興味深い話をいろいろ書いてもいらっしゃるので、またご紹介します。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)