繁俊がモデル!大学講師が連続怪死事件に挑む 松井今朝子作「愚者の階梯」

直木賞作家の松井今朝子氏が9月に「愚者の階梯」(集英社)を出版されました。
これは昭和5年の事件を扱った「壺中の回廊」、昭和8年の事件を扱って渡辺淳一文学賞を受賞した「芙蓉の干城」に続く昭和三部作の完結編です。
松井氏は、早稲田大学演劇科に入学なさって以来、登志夫とは長いご縁があります。
登志夫が亡くなった年に、繁俊と登志夫をモデルに書きたいのですが、というお話がありました。「もちろん喜んで、どうぞ。光栄です。でも1つだけお願いがあります。男前に…よろしく」と申し上げたように覚えています。
この劇場×時代ミステリーの殺人事件を解決するのが大学講師の桜木治郎です。桜木治助という架空作者の末裔とされていますが、モデルは黙阿弥の末裔、繁俊、登志夫ということです。
「愚者の階梯」は第二次世界大戦前夜の昭和10年、劇場の中で起こる事件で、当時の世相が深く考証されています。劇場の組織も、俳優の心理も、舞台の裏も表も知り尽くした松井氏の作品は、重苦しい時代と芸術魂のせめぎ合いを描き、迫力があります。
河竹家では、繁俊と登志夫の面影を頭に浮かべながら読んでいますので、人ごととは思えず、事件が解決するとほっとします。
「芙蓉の干城」は2018年に出版され、翌年渡辺淳一文学賞を受賞しました。東京会館での祝賀会には、河竹家も招待されて、松井氏のお友達と一緒に、関係者席に座らせていただきました。作品の中の桜木治郎の身内のようで面はゆく、大変複雑な嬉しい気持ちでハレの席に着いておりました。良子と次女と、その夫の藤谷浩二さんと心からの乾杯をしました。
「壺中の回廊」は人気役者が「忠臣蔵」の舞台で殺されます。綿密な時代考証と、舞台裏の世界の描写は、流れるような文章で、息もつかず一気に読んでしまいました。この本が出版されてからもう10年ちかくが経つのですね。

ところで、このブログの2022. 8. 18〜9.10 は 登志夫が小学生時代に受けた戦時教育①〜⑥を載せました。残された登志夫の日記、おもちゃ、雑誌、読本、教科書などから、当時の教育の現場をおのずと知ることになりました。

小学生の登志夫が「勅語」を「おちょくご」と書いていることに、まず驚きました。戦後の教育を受けた者は、修身、勅語のことを聞いてはいましたが、実際の暗記の仕方、呼び方等の具体的なことなどがわかって、その徹底ぶりは聞きしに勝ることばかりでした。お国のために、天皇のために生きる、すなわち死ぬ事が徹底的に教え込まれています。

「昭和10年4月6日の日記
満州国皇帝が東京へいらっしゃるのだ。夕刊が2つ来て両方とも満州国皇帝のことで大体埋まっている。
4月8日  
学校で満州国の国歌を先生がレコードで聞かせてくださった。聞いたこともない変な言葉なのですぐ忘れてしまう。明日は大向小学校から500人が代々木の観兵式と分列隊を見に行ける。
4月9日 
天気が良かった。人が多くてごちゃごちゃでわからなくなったが、皇帝陛下が天皇陛下とご一緒のところを見ることができた。分列式のタンク隊の見事に規律正しい行進に感激した。」
9月のある日、このブログをここまで書いて、郵便物を取りに行き、その中に松井氏が送ってくださった「愚者の階梯」を見つけました。すぐ開いてみましたが、目に飛び込んできた文章が「満州国薄儀皇帝が、6日午前に横浜へ上陸。お召し列車は東京駅に到着した。11時30分には市内に礼砲が殷々と轟いて、今上天皇が自らホームに立ってこの盟邦の元首を迎える…」と、いま載せた同じ日のことが書かれていたのです。
偶然の一致とはいえ、あまりの偶然に驚きました。博儀皇帝がらみの殺人事件の謎を解く桜木治郎に、小学5年生の男の子がいるような錯覚を覚えたのでした。現実と小説の世界が混じりあったような感覚です。

繁俊のほかにもモデルがいますので、その頃の様子の一端を写真から見てみます。

写真は、昭和2年頃の繁俊 渋谷松濤の書斎で。
この頃黙阿弥全集出版の仕事を終えたところで、劇界に戻って文芸の仕事をしたいと思っていました。ところが坪内逍遥の演劇博物館建設に邁進することになります。
「愚者の階梯」に出てくる亀鶴興行社長の大瀧のモデルは松竹の大谷竹次郎氏だと思います。
昭和3年演劇博物館設立発起人の記念写真があります。(前列、左に大谷竹次郎 2列目、右はじに繁俊)、『逍遙選集』の印税だけでは足りないので、渋沢栄一、大谷竹次郎さんらが発起人となった寄付金集めが行われましたが、集めるのは繁俊の仕事でした。若き興行師大谷竹次郎は、体格も良く、エネルギーがみなぎっている様子です。
繁俊は途中卒倒するほどの激務の末、博物館を完成させますが、政、財、劇、学会の大きな助けがありました。
昭和5年、早稲田演劇博物館での写真です。資金が足りなくて早大に縁のある俳優や劇団に依頼しての寄付公演をしたりしました。次第に役者さんが亡くなると、その遺愛品が持ち込まれるようになり、少しずつ演博らしくなっていった頃です。
昭和8年の繁俊です。この頃病気の逍遥に代わって、歌舞伎座での5代目中村歌右衛門の「牧の方」の舞台監督などもしています
「愚者の階梯」が描く昭和10年は坪内逍遙も亡くなり、繁俊は47歳、早稲田の文学部講師で、前年には演劇博物館館長になり、NHKラジオで演劇史の講座を始めます。紆余曲折の歩みの後に、文芸の道には戻らず演劇学への道筋がついたといえる頃で、国立劇場建設に動き始めた頃です。
松井氏の三部作に毎回登場して、もう1人の主人公とも言える六代目荻野沢之丞は「歌舞伎界の女帝として君臨する名優で、3000坪の敷地の大邸宅に住んでいて、その孫の五代目荻野宇源次は天賦の才と美貌で将来を嘱望されている」と書かれています。この2人のモデルは松井氏のブログによると、5代目中村歌右衛門と6代目中村歌右衛門です。

この写真は昭和12年2月に写されたものです
左から繁俊、5代目中村歌右衛門、6代目中村歌右衛門(当時は福助) で、モデル3人が揃っています。
歌右衛門は大日本俳優協会会長として、早稲田演劇協会の国立劇場建設案にも熱心に賛同しました。写真は、その打ち合わせに早稲田の大隈会館を訪れた時。この建設案は国会で超党派満場一致で可決されましたが、日中戦争が始まり中断されてしまいました。

5代目歌右衛門は震災前、自ら演劇図書館を作り、演劇博物館建設(発起人)にも協力を惜しまず、国立劇場建設にも熱心に働きました。新作にも取り組み、逍遙の淀君や牧の方は代表的な演目にもなりました。不出世の名優といわれ、スケールの大きな人物でした。

昭和15年10月1日、中村歌右衛門丈展が演博で開かれました。これはその時の写真で、左から2番目繁俊、児太郎、福助です。
翌16年9月に5代目中村歌右衛門が亡くなります。孫の児太郎(後の7代目中村芝翫)は13歳、次男福助(後の6代目中村歌右衛門)もまだ23歳で、大きな後ろ盾を失い、時代は戦争に向かう中、これからの大変な苦労が思われます。
大谷竹次郎氏も昭和20年5月の空襲で歌舞伎座が燃え落ちるなど、戦争の試練に見舞われます。
昭和12年演劇博物館での1枚。同年熱海錦ヶ浦での、繁俊と登志夫。
昭和10年頃から美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、政府は国体がおろそかになるという理由で、国体明微声明を出していました。それが昭和12年に文部省から出された「国体の本義」です。①天皇に絶対随順、奉仕すること②天皇の御ために身命を捧げる事が国民としての真生命を発揚することである。 ③人間を個人の対等な人格関係と見るのは日本の国体になじまない。と「修身」よりも踏み込んでいきます。
7月には日中戦争が始まり、8月、国民精神総動員実施要項が決まり、軍国的な時代に入っていきます。この年、登志夫は小学校を卒業して中学生になり、修身の時間にこの「国体の本義」を勉強することになります。

氏はブログで「美濃部達吉の天皇機関説が否定され、日本は西洋と違うから、天皇を法律の中で解釈してはいけない、と言ってしまうわけです。そうすることで日本は世界の常識からこぼれ落ちていきます。
この点はしっかり認識しておいたほうがいいと思います。これは今の問題でもあり、連載前に日本学術会議の会員の任命拒否問題が起きました。(2020年9月)首相が任命するといっても、推薦された候補者を拒否するなんてやってはいけないことなのではないかと思ったのです。
    誰も止められない空気、忖度もそうだし、ある種、天皇制がその最たるもの。最初のほうに天皇機関説の話を置いたのも、最後の締め方にしても、日本の何とも言えない中心が空っぽであると言う感じ、つまり中心の意思はないにもかかわらず、そこに意思があるかのごとく、みんなが行動する怖さを感じながら書きました。中心にいる本人も気の毒なんだけど、そういう話ってよくありますでしょ。それを書いてみたいなと思ったんですよね。」と話しています。
ミステリーの面白さと、この骨太の時代を捉える感覚が醍醐味です。

このシリーズは、この作品で終わり、次は近松ミステリーを予定していらっしゃるとの事。それもまた楽しみですが、また何かの機会にこの三部作の続編が書かれることを願っています。(良)


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)