「ウィーン、我が夢の街 」 寺崎裕則氏と対談
こちらはオペレッタの寺崎裕則氏との対談、「オフシーズンの旅行開発、ヨーロッパのすばらしさ」。
登志夫は1974(昭和49) 年9月から翌年2月までの半年間、ウィーン大学演劇学研究所に客員教授として単身赴任しました。
一方の寺崎裕則さんは、歌舞伎の演出家でもあり、74年に文化庁在外研究員として、ドイツのベルリンでフェルゼンシュタインに師事したあと、ちょうどウィーンに滞在していらっしゃいました。
登志夫と10歳位の違いですが、元気で明るいお人柄で、ウィーンを、オペラをとても楽しんでいらっしゃいました。帰国して3年後に日本でオペレッタ協会を創立し、歌舞伎とオペレッタの融合と言える素晴らしい演出をなさいました。これは帰国後3年目頃の対談です。
写真は、1974年10月6日撮影、Alte Hofburg(旧王宮)。この中にウィーン大学演劇学研究所があります。
ウィーン大学の学生たちと。
旧王宮の中のシャンデリアのある教室での授業。
ディスカッション、右端が登志夫です。
真ん中の写真は登志夫の下宿で。右が寺崎さん、真ん中が登志夫、2人とも若いです。
下の写真は、ホッフブルク(旧王宮)の中で開かれた75年1月25日の舞踏会で。記事は、冒頭のページの続きです。
右上の写真はドナウ運河、ウィーンの森を望む。写真の裏に「京都の賀茂と東山に似たる」と書かれています。
真ん中の写真は、街角にクリスマスツリーが準備されているところ。
右下の写真は、クリスマスの頃の街。
本文の写真 ビィーナー・バル(華麗さの極致と題して、オーストリア政府観光局が提供)はウィーン国立歌劇場で行われます。
右上は、ウィーン国立歌劇場。
真ん中は、2月のバル当日の劇場入り口。
右下は、1月26日に研究所の方々とどこかのバルに行ったのでしょう。この時期は連日のように行っているようです。
右下の写真はクリスマスの頃に開かれるクリストキンドルマルクト。いろいろなお店の屋台が出ていて日本の縁日のようなものです。子供のおもちゃや綿菓子、風船などなど。
ザルツブルクに寺崎さんと2人で出かけたときのスナップ。
演出家の寺崎さんの指示でしょう、いつになくポーズをとっています。
右上の写真は、寺崎さんとあとお二人でどこかに行ったのでしょう、写真の裏に何も書いてないので解りません。
真ん中の写真は、クリスマス休暇に妻良子がウィーンに呼ばれたときのもの。旧王宮の中の一室、キャンドルの光の中で研究室の方々が歓迎会をしてくれました。
登志夫の下宿で良子と。
ウィーンを去る日、飛行場で寺崎さんと良子
登志夫にとって、今から64年も前の1958(昭和33)年、アメリカ留学の帰りにヨーロッパ、エジプトなどを旅行した時がはじめてのウィーンでした。
1994(平成6)年、「俊寛」ヨーロッパ公演の総合監修として同行するまでの3 6年間に12回以上ウィーンに滞在しています。
この対談の翌年には再び半年間の客員教授でウィーン大学を訪れます。ウィーンは登志夫の第二の故郷のようでした。
ブログ「2022.09.24 切り抜き帳9より③ ④ 「ウィーン出講、歌舞伎とオペラ」、ブログ「2022.10.10 切り抜き帳10より② 「随想、エッセイ、訪欧のことなど」に、この頃のウィーンのことが書かれています。(良)
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