切抜帳10より②(1976-1977)/随想・エッセイ/訪欧のことなど

エッセイなど。

1976年、「東京国税局・局報」に「楽に踊る苦心」。六代目の芸談を引き、ふつうの人たちに、楽しんで読んでもらえる文章を書くための苦心について。


こちらは「エコノミスト」に「私が二人いる?」。これは、第一随筆集「幕間のひととき」に収録した随筆です。関東大震災で死んだ兄のことを書いています。兄が生きていたら自分は今とは違う道を歩いていただろう、という生涯折に触れ考えたテーマです。


「銀座15番街」に、「銀座と私」。逗子に越してから新宿一辺倒だったのが、新橋銀座に親しむようになったちょっと浮かれ、はしゃいだ内容です。


サンケイ新聞に「島女と団扇絵」。黙阿弥の次女で是真の弟子だった島女のこと、それから最近団扇をめっきり使わなくなったし、贈答さえなくなった、そして最後は、子供の時の宿題で団扇絵を描き、評価が高かった、と締めくくっています(笑)。夏になると、子供の頃のことをやけに懐かしく思い出すのはみんな同じですね、宿題やら海やら体操やら。


サンケイ新聞に「あるヨーロッパの表情 ”演劇の旅”から帰って」。

この年、8月末から一か月、「国際演劇学会連合の大会研究発表および各国で講演のため国際交流基金から派遣されウィーン、ケルン、コペンハーゲン、東ベルリンを歴訪」(年譜より)しました。5月には、「オーストリア科学アカデミー(学士院)より、中村元博士につぐ日本人2人目の在外会員に推挙され」ています。その旅から帰っての所感です。登志夫はヨーロッパの長く冷たい冬についてずいぶん書いていますが、ウィーンの知り合いによれば、最近のウィーンは、昔とはずいぶん違い、夏はとても暑く、冬も暖かくなっているようです。


その訪欧中に亡くなった「大木豊氏を悼む」。


日本文化会議月報に「ウィーンと私」。1958(昭和33)年、ハーバード大学の研究所への留学の帰途、ウィーンへ立ち寄ったことから、キンダーマン博士との縁が始まり、登志夫は何度もウィーンへ出講しました。

1971(昭和46)年の弾丸旅行の際にキンダーマン博士と。


京都新聞に「京都今昔」。南座の顔見世を観て、そのあと河原町二条にできた「レーザリアム」のドームへ。Wikipediaによると、「日本では1975年に京都に近畿放送により常設館が開設されたが、数年で閉館した」とあります。あとは、登志夫の文章に細かく書いてあります。音楽とともに、様々なレーザー光線による図形がプラネタリウムのようなドームに描かれる…。登志夫は当時最先端の映像技術を体験してとても楽しかったようです。登志夫はプラネタリウムも好きだったので、晩年、コニカミノルタのプラネタリウムがスカイツリー近くに出来たので、足がよくなったら行こう、と言っていましたが、行けずに終わりました。いまの進化したプラネタリウムを観たらなんと言うかな、と想像します。


1977年4月号「中学教育」に、「金貨の袋」。中学二年の時の英語の先生、小野先生については、昨年1月31日のblogに登場していますが、登志夫の英語に自信を持たせ、その後海外でも英語を使って講演をするようにさせたきっかけとなる方ですので、恩人です。登志夫は褒められて伸びるタイプです。

このエッセイに出てくる本は、登志夫が大切に保存していて、まだ新しくみえるようです。昭和10年8月、8版発行、定価80銭とあります。90年近く前の子供の本です。


NHKテレビ「英語会話」に「英語と私」。ここでも小野先生の教えについて書いています。登志夫は、子供たちにも小野先生流に発音記号から教えようとしたので、みんなついていけませんでした。


「書芸なにはづ」に、「縁というもの」。この前年から、『作者の家』の連載が「季刊芸術」で始まりました。この「書芸なにはづ」というのが、大向小学校の同窓の書家とわかって、そのご縁で寄稿しているということです。で、小学校の時に通りがかった人に助けてもらった体験を書いています。登志夫はそのあとも、「吉原で100円もらった話」というタイトルで、終電を逃して吉原の女性に100円をもらったといういい話がありますが、人生に何度もそういう体験があるのは幸いですね。


「日経新聞 本との出会い」に「心に太陽を持て」。小学校五年の時に読んだ山本有三の著書が、戦中戦後、登志夫を励ましたと書いています。今この詩の部分だけを読んでも、大変すばらしい詩です。しかし、登志夫がこの時期に読んだのは、教育勅語や、その他さまざまな軍事教育用の修身なども同時です。それを思うと、この詩も、軍歌と同じように思えてきますが…。山本有三の「君たちはどう生きるか」は、最近ブームになりましたらか、この著書も、読む人が増えているかもしれません。


「週刊民社」に「福禄寿の盃」。逗子の家の片づけをして出てきた盃ふたつについて。ひとつは二世左團次から。もうひとつは三田村鳶魚から贈られたもの。そこにある福禄寿という図柄から、話は現代では七福神や干支もわからない人が増えているというお話に…。そういえば、登志夫には何度か七福神のテストをされたような…。寿老人とか、福禄寿はなかなか出てこなかったような気がします。最後は登志夫が正解を教えてくれたような。しかしこの写真、ちょっと違う人のよう。


「パレス」に「セビリアの昼と夜」。3年前、ウィーン大学に出講中、クリスマス休暇に良子を呼び寄せて数か国を旅行したときの、スペインでの思い出です。


「サラリーマンの勉強」という実用書でしょうか、文章上達の極意欄に、「やさしく分かりよく」。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)