登志夫が小学生時代に受けた戦時教育④登志夫の日記、学校生活、軍歌と勅語

小学校1年生頃の両親と登志夫。松濤の家の庭で。

1年生は病気で入学式も始業式も行けず、6月になってようやく初登校、この年度は欠席81日でした。
1年生のとき図画です。

夏休みの友。算数や国語など、宿題です。ちゃんとやっています。


この日は鵠沼の叔父の家に遊びに行って幸せそうです。


これは2年生の修身とつづりかたで、母のみつがこよりで綴じて保存していました。


修身をめくると、練習問題か、テストか分かりませんが1番目に「 日本人はどういう心を持って、天皇陛下の御ために働かねばなりませんか」と言う設問があります。

1  「天皇へいかが、『よの人をいっそうしあわせにし、わが国をますますさかんにしよう』とありがたいことばをたまわったから。」と、登志夫は教えられた通りに答を書いています。

3年生の日記が見つかりました。この年もお腹を壊したり、扁桃腺の熱がひどかったりで休み休み(1学期で20日間休み)で、遠足も海にもいけず、日記には「遠足に行った人はどんなに面白かったことだろう」、学校に行ける日は「素晴らしい天気だ。僕は大喜びで学校へ行った」と書いています。


お勅語~登志夫の4月23日の日記より

「1時間目は川野先生のかわりに校長先生がお出でになった。其の時、おちょくごを僕がよんだら、よくよめたとほめてくださった。」
子供たちは勅語のことを「おちょくご」と呼んでいたのですね。知りませんでした。
7月12日の日記  
「今日はしゅうしんの時に、おちょくごをかいた。帰りに、先生が『おちょく語を見ないで、わからないところだけ見て、カナをふってきなさい。』とおっしゃった。僕は家で残っていたのと宿題のおちょく語をみんな書いてしまった。書いてしまうと、いい気持ちのするものだ。」
小学3年生がこの難しい字のたくさんある勅語を見ないで書く、暗記していますから漢字で書けなくても、カナをふるのは簡単でしょう。登志夫はみんな書いてしまって、達成感を味わっていますが。
1年生から教え込まれるとできるものなのですね。

夏休みの宿題のノート
読み方の問題 大日本を読んで
① 1番の歌はどなたがどうなさることを歌ったのですか。登志夫の答え「天子様が国民を我が子のようにおぼしめされること」
②2番の歌は誰がどうするかを歌ったのですか
「国民が天子様を神とも仰ぎ親とも思ってお仕えすること」
③ 3番の歌はどういうことをうたったのですか
「1度も敵に負けないで、月日といっしょに国の光が輝きまさること」

10月30日の日記には
「今日はおちょく語をたまわった日で、式があった。その式の時、校長先生が『今から44年前の10月30日も、その日まで嫌な天気だったのが、その日になったら今日のようによく晴れた』と言うことをお話になった。」44年前は明治23年教育勅語が発布された日です。

11月13日の唱歌の時間の記述があります。「帰ってから、今日習った橘中佐がいい歌なので、稽古をした。それから宿題をした。」唱歌の時間に軍歌を教えていたのですね。
修身の試験にも出てきた広瀬中佐は、日露戦争で戦死した海軍の軍人で、軍神と崇められ、神社ができました。
橘中佐は日露戦争で戦死した陸軍軍人、軍神と崇められ、やはり神社が建てられました。12番までで、後は略とあるのでずいぶん長い歌のようです。
歌は情緒に訴えて、心の中に入り、メロディーとともに一生忘れません。天皇のため国のため自分の命を顧みず、神となる、軍歌は凄惨な現実を美しく歌いあげます。そして心の奥底で歌いつづけます。

10月30日(4年生の日記)
今日は御勅語をお下しになった日で、学校では式があった。その上『一旦緩急あれば義勇公に奉し』というところを清書した。帰ってからまた新宿のお医者に行った。
10月31日
今日は旅順攻撃の時決死隊35人に加わった、軍人(体に敵の弾22 発をうけた)がいらっしゃって、大きな声でお話しになった。
相撲の力士が来て、相撲体操を教えたことが日記にあります。国は富国強兵の目的で、運動会や遠足で兵士になる子供たちの体力向上を図ります。力士の来校もその一環ですが、子供たちはそうとは知りませんから、大喜びでした。
これは4年生の時間割です。鉛筆で90年も前のものなので薄くなっていますが、何とか読めます。修身2時間。読み方、書き方、綴り方、で9時間、算術6時間、理科2時間、体操3時間、唱歌、図画、手工などです。
修身の時間は国史(日本の歴史)、道徳、偉人伝など様々な角度から忠君愛国が教えられました。
登志夫5年生の日記帳です。最初のページに勅語とその字解が載っています。
まず暗記をさせて後、一字一句を理解させるのでしょうか。筆者もどう読むかわからないところがあったので助かりました。
見開きに学校行事の表があります。
四方拝(天皇が四方を拝し、皇位の継承を祈る)、
元始祭(天皇が皇位の始まりを祝う)
紀元節(神武天皇即位の日)、憲法発布記念日、
地久節(皇后陛下誕生日)、陸軍記念日、
春季皇霊祭(天皇が皇祖の神霊をまつる)
神武天皇祭(神武天皇崩御の日)
天長節(昭和天皇誕生日)
靖国神社例祭(国家のために命を落とした人を祀る)、端午の節句、海軍記念日
秋季皇霊祭
戌申詔書下賜記念日(日露戦争後の思潮を否定、天皇制国家の道義の声明をした記念日)
神嘗祭(収穫を天照大神に奉納)
教育勅語下賜記念日
明治節(明治天皇の誕生日)
新嘗祭(収穫を神神に感謝し天皇もいただく式)
大正天皇祭(大正天皇崩御の日) 
みごとに天照大御神、神武天皇から始まる皇統への尊崇行事で、徹底しています。登志夫の日記を見ると学校がお休みの日もあれば式だけの日もあります。

「紀元節は日本の1番初めの天子様の神武天皇様が御位におつきになった日です。この日を長く忘れないために紀元節と言ってお祭りをいたします。おめでたい日ですからどこの家でも日の丸の旗を立てて祝います。学校でもみんな集まって紀元節の歌を歌ってお祝いの式をあげます」(登志夫の2年生の作文)
「12月23日  日曜だが皇太子殿下のお生まれになった日なので式がある。式がすむと明治神宮を参拝だ」「12月2 4日 原宿に大変立派な紫いろの列車が止まっていた。その中の1つには金のすじが引いてあった。機関車は黒く塗り直してあって銀のすじが通っていた。明日は大正天皇祭で皇太后陛下がいらっしゃるかもしれないとの事だった」(4年生の日記)

次の見開きは皇室、皇族、朝鮮王族、公族
次は歴代天皇の表です。登志夫は全部暗記したように言っていました。
5年生の2月26日の日記。226事件。
「朝から雪が降って、お昼ごろ大分盛んになった。帰るとき非常に盛んになっていた。朝青山に何か変わったことが起こったらしく、道にはピストルを持った巡査がいて、姉さんの話では電車通りは鉄条網が張ってあり、兵隊がいるらしい。」

2月27日の日記

2月29日の日記
「今日は戦争になりそうだったが、午後になって、勅令で(兵隊が)次々に帰ったので人民も危なくなく、治まった。1日中ラジオをつけてニュースを聞いた。
学校も休みだった。3人の(高橋、岡田、斉藤)方々は気の毒である。午後お雛様の手伝いをした。」
 
3月1日の日記に岡田首相は安全で、身代わりになったのは義弟の松尾大佐だったとあります。

5月8日の日記。
「午後1時前、僕らは今度満州へ行く兵隊を見送るため、道玄坂へ行った。この前火事で焼けた宮田家具がありなんとなくすごいようなところ。しばらく待つうち、先頭に馬に乗った立派な人が来た。皆山も砕けるように万歳を叫んだ。大砲も見えなくなり、1軍が去ると急に寂しくなった。」
5〜6年生のときの絵です。
毎週1、2回お医者さんへ注射に行き、まだ痩せていて、時々病気で休んだりもしています。友達が見舞いに来てくれたり、代々木の原での戦争ごっこ、学校の帰り道には紙芝居や猿芝居、羅宇屋や飴細工、しんこ細工屋などが出ていて、見ながら帰ります。宇田川の狭い路地の奥の駄菓子屋へも行くようになりました。50銭銀貨を拾って、友達みんな、8人で交番へ届けに行った日の日記を読むと、ほほえましくなります。
6年生の「通信箋」には、背丈は並だが体重は25.0キロで、発育概評は「丙」と記されています。なんとやせっぽちだったことでしょう。6年の修学旅行は伊勢参りと決まっていましたが、これもついに行けずじまいでした。
父繁俊の仕事柄もあり、新劇や歌舞伎や相撲見物、活動写真などに連れて行ってももらいました。
学校から明治神宮の玉砂利の間をきれいにするお掃除に駆り出されたり、出征兵士の見送りなどもありましたが、病弱な彼は親切な友達たちに囲まれて、精一杯勉強したり、遊んだりした日常でした。
後で考えれば戦争へ向かう国の教育のあり方がはっきり見えますが、当時の小学生ではその当否を判断するための比べる知識がないのですから、その中で教えられるまま、精一杯生きていたのです。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)