登志夫が小学生時代に受けた戦時教育③教育勅語、子供啓蒙唱歌etc

小学校に入ると「修身」の授業がありました。これは5年生のときの教科書です。

表紙を開けると、目次には、「わが国」「皇太后陛下」「忠義」「挙国一致」「公民の務」「公益」「衛生」「倹約」「産業を興せ」「孝行」「兄弟」「進収の気象(ママ)」「勤労」「勉学」「勇気」「忍耐」「自信」 「主婦の務め」「朋友」「礼儀」「度量」「信義」「誠実」「謝恩」「博愛」「徳行」「よい日本人」という項目が。

そして有名な「教育勅語」。明治憲法発布の翌年に出された勅語。低学年では先生が読み、生徒は暗誦しました。そして暗記してしまいます。登志夫も、家族の前でよどみなく披露してくれたことがありましたが、一生忘れる事はなかったでしょう。小さい時に覚えた歌と同じです。


「第一課 我が国」は、天照大神から始まり、(中略)かようなありがたい国に生まれ、かような尊い皇室をいただいていて、またかような美風を残した臣民の子孫ですから、あっぱれ「よい日本人」となって我が帝国のために尽くさなければなりません、と皇室と国民が一体になることを説いています。



最後の「27課 よい日本人」。
この「尋常小学校修身書」の第1課から第27課までが、教室で暗唱した、勅語「朕惟うに我が皇祖皇宗國を肇むる…」の中身だったのですね。
国、即ち天皇の意志に従い、忠誠を誓い、勤勉に奉仕するという忠君愛国の思想と、儒教の教えが巧妙に混ぜ合わされて、繰り返し繰り返し、子供の心の中に教えこまれます。

式典で歌う「勅語奉答」の歌詞は、
「あな尊しな大勅語(おおみこと)   勅語の旨を心にえりて 露も背かじ朝夕に あな尊しな大勅語」。
登志夫4年生、天長節の日の日記。校長先生が勅語を読み上げ、この後天長節の歌をうたったのでしょう。坊主頭の生徒たちが頭を垂れて聞いている絵が描かれています。
「今日の吉き日は、大君の生まれたまいし吉き日なり。今日の吉き日は御ひかりの、さし出たまいし吉き日なり。」天長節の歌の歌詞です。

しかし家に帰れば、下の写真のように、両親が買ってくれた本があります。ラジオの相撲放送に聞き入ってもいます。学校から帰るとすぐ何人かの友達と遊びます。

ブログ(2022.07.25)で、武井武雄「おもちゃ箱」「動物の村」、楠山正雄、小村雪岱の「源氏と平家」を取り上げました。楽しい夢の世界と魂のこもった絵や無常の世界の思い出を書いています。写真右下の「日本童話宝玉集」は600ページの大冊で楠山正雄編集で、大正の香り高い本です。その左の「小学童話読本」は大正14年の菊池寛編集で、浜田裕介、小野浩、楠山正雄、西条八十、鈴木三重吉の著作を収録しています。大正のやわらかなロマンと人間讃歌に溢れています。パチパチ小僧や孫悟空も登志夫を広い世界に連れ出してくれたことでしょう。まだまだ明るい大正の空気もあったのです。



昭和9年から11年位の少年倶楽部付録の「忠勇日本」「ぼくらの軍歌唱歌集」「出世美談宝玉集」「少年国史絵図」「豪勇荒鷲艦長」(ドイツの話)です。昭和11年には226事件が起きていますが、急速に忠勇、軍歌、出世、国史、豪勇艦長と、題名だけ見ても軍事色が出てきます。少年、少女、婦人雑誌などの付録はこぞって、戦争への道に竿しています。
「忠勇日本」は息子を戦地に送る父親が、近所に恥ずかしいから、生きて帰ってくれるなと言うところから始まります。他も「よい日本人」の話です。

この中の「僕等の軍歌唱歌集」を紹介しましょう。

君が代、紀元節、天長節、軍艦マーチ、広瀬中佐、など、軍歌もたくさんありますが、仰げば尊し、蛍の光、茶摘み、あの町この町と、後の方はほとんど小学唱歌や童謡です。

巌谷小波作、陸軍行進曲です。 
4、御国のためには命は鴻の毛
   義を見て進むに
   水火も辞せず
   克忠克孝
   これ我が心
この4番の歌のような世の中へ、人々の心を動かそうとします。

   

真下飛泉作、戦友です。
「戦友」は日露戦争の時に作られた軍歌で、よく歌われていました。読んでみてください。人々の心の中では厭戦歌と捉えられていたのではないでしょうか。「鳥の羽の様に軽い命」とはいえ、戦友の命は重いのです。


同書の「軍馬の唄」です。サトウ・ハチローの『僕等の詩集』(大正10年刊)からの転載です。
時節柄、軍馬はけなげに里心を捨てようと思いますが、最後の1行がハチローさんの心だったのでしょう。
これも同書の「百舌よ泣くな」です。やはり時節柄、「百舌よ寒くも 泣くで無え」と、いいます。
当時中国東北部、満州国に軍の一員として派遣されている作者の、兄を思っての詩と言われています。
戦後私たちが歌った「もずが枯れ木で」では「もずよ 寒いと鳴くがよい」という歌詞になおされています。
この時期、優しいハチローさんこそが泣くのを我慢していたのでしょう。

そしていろいろの軍歌が、修身の時間などで小学校低学年から教えられていました。


河竹登志夫 OFFICIAL SITE

演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)