登志夫が小学生時代に受けた戦時教育①のらくろ、軍犬…。

終戦から77年。先日、NHKラジオアーカイブスで、広島で原爆を受けた体験を生涯語り、活動し、昨年96歳で亡くなった坪井直さんのお話を聞きました。登志夫より半年ほどあとにお生まれでしたから、ほぼ同じ教育を受けたでしょう。坪井さんは、お話の中で、子供への教育がどれだけ大事で、人生に影響があるかということを力を込めて語っていました。国のために辛抱し、命を捧げることを喜びとする人間を生み出すための教育とはどんなものだったのか。登志夫ののこしたたくさんの子供向けの雑誌や書籍を見るとよくわかります。登志夫はこう綴っています。
「私の世代は、人となるまでの節々がちょうど戦争の節々と一致すると言う文字通り“有難い”運命を負わされていた。

『満州事変』勃発の年に小学校入学。中学へ上がった途端に『支那事変』すなわち日華事変が起こり、高校へ進んだ年に『大東亜戦争』宣戦布告。卒業を後1年に控えた大学2年の夏に、無条件降伏…。

物心ついた時はもう『軍縮』とか『非常時』とかいう言葉が巷に飛びかい、大きくなったら何になると聞かれると、陸軍大将とか海軍大将と答える子が、増えつつあった。

だが私は、軍人になろうと思った事は1度もなかった。むろん子供のこと、反戦思想でもなければ、家業をつがねばならぬなどと意識したわけでも毛頭ない。前に言う通りの病弱だから、その日1日無事に過ごすのがせいぜいで、軍人はおろか将来を夢見る余裕さえなかったのである。」


これは「幼年倶楽部」(昭和11年)新年号付録の絵はがきで、5枚1組です。
左は宮尾しげをの「トントントン吉」。右は田河水泡の「平気の平助」。あらかわいいと思って次の葉書を見るとこの2枚です。
左「おごそかな軍艦旗掲揚式 日本海軍万歳!!」。右「いさましい騎兵の進軍 日本陸軍!!」。「飯塚冷児畫」と裏に書いてあります。
残りの1枚は何だったのか。誰かに年賀状として出したのでしょう。時代の変わり目を感じます。


後には全部日本語に訳したという野球も、この頃はまだ子供向けにゲーム用カードが売られていました。登志夫の好きな相撲のカードと一緒にとってあります。

これは昭和5年刊の「漫画の缶詰」田河水泡作。

「幕間のひととき」で、この本は「世界恐慌の翌年の刊だけに、今見ると不景気と小市民生活全盛の世相が見えて、面白い。中に見開きのI枚絵で月世界見物というのがある。中学生の修学旅行らしいが『地球で6貫目のものは月で1貫目だよ』とか 『これは噴火口だ』とか『火星へ行きたいな』など、まるでつい現在のような錯覚を覚えるのだ。

思えば昭和初年、戦争への歩みが始められる一方、平和ムードの夢は「テレビジョン」であり「人造人間(ロボット)」であり「月世界探検」だったっけ。」と書いています。
幼年クラブの付録
この頃は世界恐慌の影響が日本にとっても最悪の上に、農村の疲弊で、子供の身売りや欠食児童と言う言葉が流行ったりしました。満州事変の軍部と政府の方針の違い、クーデターの発覚、労働組合運動、政府と財閥の癒着、テロ、など、複雑な世相でした。
そんな時、昭和7年2月第一次上海事変が起こり、点火した爆弾を3人で抱えて突進自爆、敵の鉄条網を破った英雄として、3人が大変な話題となりました。翌3月には6代目菊五郎が歌舞伎座で「肉弾3勇士」を上演しています。世間は美談として熱狂して、映画演劇新聞雑誌漫画ラジオ歌謡曲文部省唱歌レコードなどありとあらゆる媒体でもてはやされました。
子供たちの大好きな、のらくろ上等兵の仲間までも「肉弾3勇士」になったりしました。
昭和8年「のらくろ上等兵」は、
頁をひらくと、著者、田河水泡氏の近影。
のらくろも、「考えに考え」た末、とうとう「世界一の名将軍」に出世したいと決心して、軍隊生活が始まります。「どうか全国の少年少女諸君のご声援お願いします… 」と言うことです。


「私が小学校に入った昭和6年に満州事変、翌7年に上海事変が起こり、世は上げて軍国調に急傾斜中。非常時が叫ばれ、のらくろは少年たちのアイドルだった。その1ページに、上等兵になった最初の日曜日に外出する話がある。友人、ではない友犬たちは両親や兄の家へ帰っていく。並んで歩いている友犬がのらくろにたずねる。
「のらくろ上等兵の家はどこだい」「僕は野良犬だから家なんかないよ」同情した友犬も、「僕の家はこの横丁だ。さようなら」と行ってしまう。のらくろは泣きながら、「諦めてあそこの焼鳥屋で焼き鳥でも食べよう」と、電柱の影に焼き鳥とのれんの出た屋台にはいる。黒い後ろ姿としっぽ。
腹が減っても(病弱で食事制限されていた)家のある私は、子供心にのらくろの身の上にりんあいを覚え、同情の涙を誘われたものだ。が、それはそれ、その焼鳥屋なるものが、夜の街を歩いたこともない私には全く未知の世界。焼き鳥とはどんな形状のいかなる食べ物か、想像もつかなかった。漫画に出る位だから子供にも常識だったはずなのに… 思えば狭く貧しい幼年期であった。」(「酒は道づれ」より)
登志夫は1人ぼっちののらくろや、焼き鳥の方が気になって、世界一の名将軍の望みは抱かなかったようです。


こちらは、「大向尋常小学校 御真影奉安殿」。
絵はがき仕立ての正面からと横から写したもので、小学校の後援会がつくって配ったようです。「御真影」とは天皇、皇后陛下の写真です。奉安殿にはこの写真と「教育勅語」が収められています。

「高等小学国史絵図」より

写真が奉安殿に入った日のことが昭和9年4月19日の登志夫(小学3年生)の日記に書かれています。「今日は御真影をいただく式があった。いつもより早く始まった。後で校長先生のお話があって天皇陛下をとてもありがたく思った」とあります。
この「奉安殿」は先生も生徒も登下校の時とか、前を通る時も威儀を正して、最敬礼をしなければいけません。

「奉安殿」は、命にかえても守るべきもので、火災で燃えたりした学校の校長先生は何人か自殺して、中には割腹自殺をした先生もありました。
ついでにこの日記の続きは
4月27日「靖国神社(国のために尽くして命を捧げた人を祀る神社)のお祭りで学校は休み、飛行機がたくさん出た」。
4月29日「天長節(昭和天皇の誕生日)の式だけで帰ってからすぐ、代々木へ行って観兵式を見た。遠くの方を天皇陛下の行列か何か、ずいぶんたくさんの馬に乗った将校が通った」。
5月30日「今朝ニュースで東郷元帥(日露戦争のときの元帥海軍大将)が7時にお亡くなりになったことを聞いた。学校で校長先生が元帥のなくなったことをお話しになった」。
6月5日「今日は東郷元帥の国葬の日なので、日曜ではないが授業がなくて式があり、元帥の小さい頃のお話もしてくださった…」。
それにしても忠君愛国がらみの記念日や行事がたくさんあります。
この渋谷区立大向小学校は生徒の減少で、平成9年に他の2校と合併して神南小学校となりました。登志夫は学校の帰りに忠犬ハチ公の頭を撫でたそうです。

忠犬といえば「帝国軍用犬協会員 佐野儀太郎」の上書きの絵はがきもあります。それぞれの裏面には状況調書が細かく書いてあります。昭和12年、13年にそれぞれ日中戦争で死んだ二匹の軍犬の戦死記念。
これは上の写真、右上のヨチ号の調書。昭和9年から14年にかけて、ヨチが戦死したこの旧満州・虎林というところで大日本帝国陸軍の要塞を建設していたそうです。反日「匪賊」に撃たれて死んだとのこと…。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)