切抜帳8より⑤(1973-1974)/公演プログラム(「安政奇聞佃夜嵐」屏風のこと)
最初は1973年4月歌舞伎座筋書「安政奇聞」、監修にあたって。この芝居、この時以来1度上演がありましたが、今月の「8月納涼歌舞伎」第2部で上演されています。古河新水(黙阿弥の門弟としての、守田勘彌の作者名)の作で、巌谷槙一氏が脚色しました。この監修のことばでも書いている通り、この作品は前半の佃島を抜けるところだけが面白く、それ以外はつまらないということで、後半は巌谷氏が書き替えているものです。
余談ですが、今月も歌舞伎座前に掲示されているおなじみの「絵看板」を見て、数十年の謎が解けました。逗子の家の仏間にあった芝居絵の屏風、このうちの、右の絵が「安政奇聞」のものだったのです。その屏風が上の写真です。下の写真が今月の絵看板。
屏風がやってきた日。前列左から照明の相馬清恒氏、文芸春秋社長上林吾郎氏、松竹の永山武臣氏、良子、後列左は乾氏、藤浪小道具の藤浪与兵衛氏、劇作家の野口達二氏、金井大道具の金井俊一郎氏。子供は、たまたま遊びに来ていたよその子たちが混ざっています。
お得意の歌舞伎町「三日月」直伝のビフテキを焼く登志夫と与兵衛氏。
同年歌舞伎座2月筋書。「仮名手本忠臣蔵」の通し上演に、鑑賞のポイントとして大序~山科閑居まで、それぞれのみどころを。
同年夏、松竹巡業プログラム。菊五郎劇団で、「河内山」と「紅葉狩」が出たようです。
同年7月西武劇場「井上ひさし 藪原検校」公演のプログラム。この一文は、のちの随筆集「幕間のひととき」に収められています。井上ひさしさんのことは、最後の本「かぶき曼陀羅」でもこの新しいジャンパーの夜のことを書いています。井上氏は、登志夫の「作者の家」を朝日新聞の文芸時評に大きく取り上げてくれ、文庫版に文章を、そのあとの随筆集「酒は道づれ」には帯に「たべものと酒にこだわった著者の半生史が、じつは公の昭和史とみごとに噛み合い、これは芸のこまかい仕掛けです…」という一文も寄せてくださいました。
国立劇場「あぜくら」。「9月公演案内/黒白論職分博多」補綴・演出にあたって。黒田騒動を題材にした黙阿弥の芝居の復活とあって、「歌舞伎新報」を頼りに仕事をした苦労がうかがえます。その後、この芝居は上演されていないのではないでしょうか。
おなじく8月青少年芸術劇場プログラムに「歌舞伎の歴史と現状」。
同じころの文化庁移動芸術祭歌舞伎公演プログラムに「百聞は一見に如かず」。
こちらは、さきほどの「あぜくら」の「ご案内」していた公演のプログラム。「黒白論織分博多」の補綴・演出にあたり。
そして、現在の菊五郎さんが襲名したときの歌舞伎座公演プログラム。「新菊五郎への期待」。この文章は、襲名前のパーティーでの配布冊子や、その後の地方公演などでも使われました。ここにも書いている通り、登志夫は歌舞伎俳優さんとは個人的にべったりとしたつき合いはしませんでした。亡くなった團十郎さんやいまの仁左衛門さんは逗子の自宅に1~2度お招きしたことがあったかと思いますが、どなたの結婚式への出席もほぼご遠慮し、用もなく楽屋へ挨拶、ということもせず、仕事でかかわったり、何か聞かれたり相談されたらそれに協力する、という態度でした。大学の教員と華やかな俳優さんとでは、世界が違います。
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