切抜帳8より③(1973-1974)/本業関係

1973年1月20日の読売新聞。「黙阿弥と近代 その批判精神を見なおす 歿後80年を迎えて」。

この年が黙阿弥歿後80年、来年2023年は130年です。登志夫の没後10年にもあたります。この記事の中で、登志夫は黙阿弥の「黙」の字の謎について、初めて「著作大概」の件を出しています。黙阿弥と名乗って引退を表明した真意についてです。これは、明治になり、「古臭く荒唐無稽」の作者の代表として叩かれた黙阿弥の「消極の抵抗」と見られていましたが、登志夫は「著作大概」を発見したことにより、「黙」の字にもっと別の意味を見出しました。ここでは、「憶測にすぎない」としていますが、この見方はこの後さらなる確信を得て、後年「黙阿弥」を著す際の芯となりました。


こちらは「中学生の勉強室」7月号。「幽霊のはなし」。夏と幽霊との関係、歌舞伎の幽霊から、源氏物語や能に遡っておはなししています。



同じく8月号。「船弁慶」のおはなしから、いよいよ「四谷怪談」、「播州皿屋敷」。

男の霊もあるが、女の霊の方が圧倒的に優勢で執念深いのは、「そのころは封建思想がつよくしかも男尊女卑の時代で、つねに女性が社会的に不当におさえられ、しいたげられていたからではないでしょうか。だから、いまよくつかわれる怨念ということばでいえば、虐待に泣くそうした徳川期の女性たちの、社会や男への怨念が、お岩様やお菊のおそろしい幽霊となって、一般市民の善男善女にうったえかけていたのだと、みることができるかもしれません」とまとめています。


10月2日の東京新聞。「演博と逍遙と父 早大演劇博物館45周年に」。逍遙と演博と繁俊とのことについてはこれまでにずいぶんこのブログで書きました。時には卒倒するほど身を粉にして寄付を集め、すべての行程に携わりました。いまでは演博のHPにも、繁俊の名は二代目館長、初代副館長として並んでいますが、創立時の苦労についてはとくに触れられていません。演博には繁俊の像がありましたが、今もあるのでしょうか。そういえば、平成20年に、繁俊は「名誉館長」の称号を授与されていますが、演博HPには特に記載はないようです。今もその称号が有効なのかは不明です。


右の記事は、10月16日朝日新聞。菊五郎襲名にあたり、「新・菊五郎への期待」という記事に戸板康二氏らと並んで談話を寄せています。

「この人の本領は女形よりむしろ立ち役にあると思われる。新しい役柄に積極的に取りくみ、わかる歌舞伎を開拓してほしい」と言っています。

翌1974(昭和49)年1月1日西日本新聞。福岡で歌舞伎展開催に合わせた記事のようです。三之助だった菊五郎、海老蔵、辰之助についての期待を書いています。


吉村五郎治氏発行の「きがく」第三号。「黒みす音楽の大切さ」。この記事は、昨年刊行の立派な本にも収録されています。


3月7日早稲田大学新聞「ワセダ人」。この時ちょうど、1年間の「国内留学制度」を利用して自分の研究や「作者の家」の準備をしていた頃でした。ここでは、当時の小劇場演劇についても語っています。


4月1日サンケイ新聞。親しかった藤浪与兵衛氏著「芝居の小道具」の紹介です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)