超虚弱児と相撲④登志夫の集めた切抜

登志夫の虚弱児だった理由を説明するため、回り道して繁俊の受難について書いていたので、なかなか相撲にたどり着きませんでした。

こちらの絵は先日「演劇界」の編集部の閉鎖のために戻ってきました。登志夫が随筆を連載していた時に預けたままになっていた挿絵の1枚です。今から14年前に描いたもので、いま家に残っている実際の駒よりきれいです。

前にもブログに上げたことがありますが、実際の駒…。

昭和3年にラジオで相撲放送が始まり、病床にいることの多かった登志夫は、熱心に中継に聴き入り、呼び出しの真似をよくしたそうです。これが始まると病気が良くなってきたと両親はほっとしたそうです。

下の写真は登志夫が取っておいたこの頃の呼び出しさん達の切抜です。

新聞の記事を抜粋します。

上の写真は国技館出発の触れ太鼓。

「春場所の初日前日、土俵祭りが午前10時から場内の土俵上で挙行された。

協会役員全員出席のもとに立行事木村庄之助翁の、降神祝詞、修祓の式があって、弊を四本柱につけて終わり。

その後3組の触れ太鼓は、ばちさばきも勇ましく土俵を3周し、さらに26組に分かれ、天下太平、国家安穏と全市に向かい一斉に繰り出された。

明日の初日は新弟子が多いため、時間を早めて午前4時開始と決まり、横綱武蔵山が欠場小結大潮も稽古中右膝をくじいて休業はやや寂しいが、九州で盲腸手術後休養していた曲者綾昇は元気で帰京、休場の噂を蹴飛ばして初日より出場する。」

中の写真は呼び出し連中。

「この日、NHKでは夜6時25分生駒氏の相撲談の後に続いて、美声揃いの清吉、宗吉、卯之助、初太郎などの4君の呼び出し連中によって、スタジオから触れ太鼓と初日の取り組みを放送するが、昔懐かしの太鼓の音は初春の夜にふさわしいものであろう。」


登志夫のお気に入りは宗吉と初太郎だったようで、勇ましいばちさばきで陽気に流れてくる太鼓、元気な呼び出しさん達の、はりあげた抑揚のある美しい声、さぞ心がウキウキしたことでしょう。床に立ち上がって声を張り上げるかわいかった、3、4才の病弱の幼児が目に浮かびます。

26組もの触れ太鼓が街の中をあちこち回るのはずいぶん威勢がいいし、住民の人々も胸躍ることだったでしょうね。令和の今は法被(ハッピ)を着た呼び出し衆が数組に分かれ、相撲部屋や後援者を訪問するそうです。1月、5月、9月に、例えば中央区なら千疋屋総本店、にんべん、利休庵、山本海苔店、栄太郎総本店、高島屋、築地魚河岸など。大相撲初日の前日にこの辺を歩くと、ぶつかるかもしれません。

また相撲の開場が朝4時からというのも驚かされます。いまは、大江戸線の両国駅着の始発電車が5時過ぎですから‥。

登志夫の母みつの話では、日本橋に住んでいた子供の頃(明治40年代はじめ)、歌舞伎見物も朝の暗いうちからちょうちんを持って家族で行ったそうです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)