超虚弱児と相撲③/繁俊、続く受難
この時登志夫は、母みつの体内の暗闇の中に手足を縮め、小さな心音を刻みながら、2週間後の出生を待っていたのです。12月7日早朝、みつは実家に近い吉岡病院で男の子を産みました。逆さにして尻をペタペタ叩いたら初めてオギャーと声を立てたそうです。繁俊は妻子の無事を見届けて、糸女のふた七日の法要にすぐ寺へ駆けつけます。
繁俊の俊と逍遙の本名の雄蔵の雄をとって俊雄(ペンネーム登志夫)と名付けられました。
登志夫は生まれてから左くるぶしの腫瘍、至難の奇病であと半日遅れたら死んでいたという咽ご膿炎、肛門周囲炎と切開手術の連続です。
大正14年2月26日の逍遙からの見舞いの手紙で子供たちも風邪を引いていたことがわかります。が、その2日後、今度は逍遙が高熱を出し肺炎となり、尿道狭窄症併発の重篤の状態が4月まで続きます。この間繁俊は今度は逍遙の見舞いに、看病に熱海まで通います。泊まることもあれば日帰りのこともあります。
20日には「子供のご容態いかがかと妻とともにご案じ申し候」と心配してくれてはいますが、歌舞伎座上演の件で子供に心を残しながらもすぐ逍遙のいる熱海に駆けつけなければなりません。
5月20日逍遙夫妻と、熱海双柿舎庭内で。
この時は逍遥が大変喜んで、写真技師を呼んで記念写真を撮ったそうです。この日のことはブログ202 1.0 3.08 にあります。
7月にはみつの実父田中亀次郎(67歳)が胃がんでなくなります。養子の身で日本橋両替町の代々続く商家の興隆を導き、頑固で厳しく無口だが、みつ夫婦を経済的にも、また全ての面で気遣ってくれていました。この強い味方までも失ってしまいます。
亡くなる2ヶ月前の屋号米佐、八代目田中佐次兵衛。
7月9日霊前にて。前列右がみつ、2列目右から2人目が繁俊。
8月、この頃小康を得ていたみつは、牛込の実家での父の法要の帰り、ホロなしの自動車でお腹が冷えて、腹痛から下痢が止まらなくなりました。これがアメーバ赤痢だったのですが、若い医者の誤診で、腸カタルとされて適切な治療がなされなかったのです。
そのうち9月には近所一帯にコレラが流行ったので予防注射をするようお触れが出ました。家族一同さっそく打ったのですが、みつはこの注射のために疑似コレラにかかり猛烈な下痢、極度の衰弱、栄養失調、数日間は新聞の字が読めず、丸2日は視力を全く失ってしまいます。
10月、これらの症状がやや軽快すると40度の高熱で粘液に血液および膿汁が混じるアメーバ赤痢特有の下痢が頻々と起こり始めました。
翌月には顕微鏡検査でおびただしいアメーバが確認され、伝研の宮川博士立ち会いで注射が始まります。が、12月、12回目の注射の後、頭脳と心臓の他の全身が麻痺し、立てなくなってしまいました。
「半死半生の状態で、両眼とも視力を全く失う有様、このときばかりは死のうと思いました。主人もさぞ困ったことでしょうが、たとえどうなっても決して見捨てるようなことはしないから心配するなと言ってくれました。とは言えやはりそれ以来とかく病気がちだったため、主人は貴重な時間をずいぶんつまらない雑事に費やさなければなりませんでした。(「演劇学/河竹繁俊追悼号」より、みつの回想)
このころ、何くれとなく世話をしてくれていたみつの妹の夫までが肺結核でなくなります。
そして、糸女の1周忌の法要が東中野の源通寺で行なわれます。親戚、門弟、劇界関係者などに通知し、河竹家の跡継ぎとして精一杯気を張って行った法要でした。
重病人の妻、虚弱児の登志夫、火傷のまだ治っていない長女を抱えながら、跡継ぎとしての体面を保たなければならない、糸女の1周忌の法要、逍遙の病気、その上の義弟の葬儀など、なんと言うことでしょうか…。
円城寺清臣さんがこの頃の繁俊の事を書いています。「震災後、やはり朝日新聞社の主催で、児童劇が大阪、京都、名古屋などを巡回公演したことがある。坪内博士夫妻も同行されたので河竹先生の気苦労は察するに余りがある。それだけに、うさはらしも当然、京都では大分きこしめしたようである。ある晩、宿の門前までたどりつくと、例によって大の字なりに寝てしまって、天を仰ぎ、夜空に瞬く星を眺めて、輝く、輝くと叫んだ。、、、震災のため、あの本所の家も家宝もことごとく失われたばかりでなく、お子さんまで亡くされた先生の胸の内はどうあったろう。今にして思えば、輝く星を仰ぐ先生の目には涙が宿っていたのではあるまいか。」(「演劇学第9号河竹繁俊追悼号」)
登志夫、寿美子と。
大正15年2月(昭和元年)には松濤に越します。
繁俊の日記に「夜半より雨になりしが午前9時には晴れ渡りき。最後の引っ越しをなす。11時にみつを寝台人力車、登志夫(1歳3ヶ月)は余、人力にて乗せて連れ来る…」
歩いてほんの6 、7分の新居への引っ越しに繁俊は孤軍奮闘、重症で歩けないみつのために寝台人力車を頼まなければなりませんでした。寿美子は、やけどの大きなあとを残しながらも、この時は歩いて行ったようです。
4月「逍遙選集」編集主任として関わり、7月「世話狂言傑作集」「時代狂言傑作集」春陽堂より数冊ずつ刊行。この間、東京から漢方医を熱海へ連れて行き、逍遙の診察、薬の手配などをします。
8月、繁俊から逍遙へ、「、、、10日ばかりまた下の子供が珍しく腹をいためて、医者の言う通り摂食だの、流動食だのと言うことで、又々看護卒になっておりましたが幸せと一昨日あたりからカユを少しづつやるようになり、自分のカラダらしくなりました。みつのほうはぶり返しはいたしませんが、あまり抱きかかえをさせられませんので、例の通り閉口いたしました。もう大丈夫になりました。」
この中の「看護卒」と言う言葉にどきっとさせられます。この数年看護に次ぐ看護で自分の体が自分のものではないような、病のしもべと言うような気持ちだったのでしよう。しかし逃れられない中で繁俊は何事にも誠意をつくしています。
逍遙も「お小さいの(登志夫のこと)がまたちょっとお弱りのよし、あとからあとからご心配お察し申し候」と言いつつ、繁俊に、吸入剤その他の薬の手配を頼んでいます。
12月「黙阿弥全集」全28巻が完結。校訂編集独力で成し遂げました。
翌年8月「小さいのが犬に云々、もはや御全癒にや、何かとご心配察し入候」
この年、繁俊、演劇博物館設立の事務責任者となり寄付金募集及び開館へ向け奔走し、過労のため卒倒
昭和3年1月「お手紙拝見、おちいさいのまだ御全快ならぬらしくご心配のことと存じ候」
3月繁俊、風邪で高熱
4月霊気療法の免状をもらう(このことについてはまたブログに書きましょう)
7月演劇博物館開館間近で繁俊ひどく疲労、
10月演劇博物館創立開館…。
昭和4年
1月繁俊、風邪
7月繁俊、寝込む。逍遙より「烈暑の際、ご発病と承り関心に堪えず候 あまりのご繁忙に、ご疲労の結果なるべくや 決してご無理なさらず、ご安臥ご療養に務められたく」(逍遥の日記には腸カタルらしいが、疲労のためなるべしとある)。
昭和5年頃撮影された演劇博物館。建設のため、繁俊が自ら寄付を集めて回りました。
昭和6年。
3月子供衆不加減の由、ご心配のほどお察し申し候
4月(信州の)ご老母のご重患にてご帰省と承り傷心致し折候
9月その後ご子息ご容態いかがご案じ申し候
11月令室、子供衆また御不加減の由しかも寒さに向かう折、いかがのご容態に候也 1日も早くご快癒あれかしと祈り候
昭和9年。
7月逍遙の日記「病気療養中のため歌舞伎座牧の方を上演につき、河竹に監督を頼む手紙を送る。愛児発熱中と後に知り気の毒に思う。」
逍遙の手紙「過日ご迷惑を願い候日は、ご子息も発病の日なりしこと、本日初めて承り、さほど取り急ぎし事にてもなかりしものをと慚愧後悔いたし候。老人の気ぜわしさを悔やみお詫び申し候…ご子息の御容態その後いかに候也お案じ申し候」
昭和10年。
1月中旬から逍遙は体調を崩していたが、セキ夫人が腎盂炎再発。続いて逍遙が急性気管支炎、急に衰弱、39度の高熱咳もひどく絶対安静となる。
2月10日、病床にての最後の手紙が届く。その日東京から繁俊、他二人を呼び寄せ2時間にわたって仕事の後事を託した。繁俊はその日はそのまま熱海に泊まり、看護を続けた。この辺の事は登志夫の「作者の家」、繁俊の「人間坪内逍遥」(昭和34年、新樹社刊)にくわしい。
2月28日逍遥逝去
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