超虚弱児と相撲② 繁俊の苦闘時代

2021年9月1日のblog「超虚弱児と相撲①」で、登志夫は「本所で大震災にあった翌年、両親の1番の苦闘時代に私は生まれた」と書いています。
登志夫が亡くなった年に出版された「坪内逍遙書簡集第3巻」(2013年10月  早稲田大学坪内博士記念演劇種博物館 逍遙協会編)には、逍遙から繁俊への440通もの手紙が収録されています。
没後8年には「演劇研究 第44号」(坪内逍遙宛諸家書簡6)(202I年3月 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館発行)が出ました。これには繁俊が逍遙に出した19通の手紙が掲載されています。
登志夫の著作とこの両家の状況がよくわかる2冊の書簡集の中から「両親のその苦闘とはどんなものだったのか」ちょっと寄り道をいたします。そして、その中での登志夫の相撲へのフィーバーぶりを見てみようと思います。


繁俊が信州の山里から上京し、早稲田に入ってまもなくの、瘰癧(るいれき)による死の恐怖を抱えての生活は、ブログ(2021.01.08、13、21)に書きました。パスや抗生物質などはまだなく、結核は死の病だった頃です。そのことで彼の人生へのむき合い方が方向づけられたと思います。
繁俊の学んだ明治40年前後は、文学、演劇界の「スツルム・ウント・ドラング」と言うべき新しい文化の、自由の嵐が吹いていました。その洗礼を受けて、彼はトルストイやガルスワージーを翻訳し、「ハムレット」で舞台を踏み、逍遙、抱月、小山内薫らに認められ、創作、戯曲、演出などに意欲的に取り組んでいました。
写真は、明治43年の頃の繁俊。
ハムレットの端役で出た舞台を兄に見つかり、父親から逍遥へ手紙がきました。朝鮮で中学教師になるか、逍遙に勧められる河竹家の養子になるか迫られます。結局まだ嘉永・安政の遺風を残す、河竹黙阿弥の娘・糸女の家に送り込まれてしまいました(明治44年)。歌舞伎が息づく江戸の文化に自分はストレンジャーなのだと思い知り、実際の生活の様々な軋轢は相当なものでした。
7年後(大正6年)みつが嫁いできたときには「泥沼の深みにはまったとでもいうような、どうにもならぬ気持ちでいる折に、片山伸先生からおさとしを受け、なんとしても自分で運命を切り開かねばと決心したところだったと後で聞かされました。」と「演劇学/河竹繁俊追悼号」にみつが書いています。
そのような中、翌年生まれた長女寿美子は元気に育ちました。
写真は、大正11年本所、黙阿弥宅にて。震災前年、寿美子5歳。

大正11年5月に長男信雄は、早産で未熟児で生まれ、肺炎など病気が続き、1歳を過ぎても歩くことができないような虚弱な子供でした。またみつは、産褥熱で4ヶ月も寝たきりでその後も患いがちになってしまいました。
信雄と寿美子と。みつの目には生気がなく見えます。

大正12年1月、河竹黙阿弥歿後30年を迎え、著作権が切れます。翌月には役目を全うしたとばかりに竹柴其水がなくなります。糸女の、最も信頼でき忠誠を尽してくれた河竹家の大番頭であり、後見人であり、版権確保のために粉骨砕身働き、右も左もわからず養子に入った繁俊を誠実に支えてくれた人でした。

38歳の若い頃のお洒落だった竹柴其水 (代表作「め組の喧嘩」)。

4月には実直な家から芝居の家に養子に入ることを許してくれた信州の父、市村保三郎もなくなります。
写真は 市村保三郎の病床を見舞った繁俊。母と兄と。

この年逍遙の勧めで早稲田で臨時講師として「イプセン研究」の授業を持ち、帝劇技芸学校主事、原稿書き、「脚本黙阿弥脚本集」の編集と寝る間を惜しんで働きました。
黙阿弥の著作権が切れるので、自分にもしものことがあっても、糸女や妻子が困らないようにと、この3年間は本所の家の水害防止の土木工事や、庭内の家作普請にも大変忙しい毎日でした。その費用(当時の2万円)を出版したばかりの「黙阿弥脚本集」でともかくも支払ったのです。
そんな中、大正12年9月1日の関東大震災に襲われます(この顛末は2020. 09.01〜10.16で書きました)。この時繁俊は35歳でした。

わずか1歳の長男の信雄は大川に流され行方不明になってしまいます。6日後、みつは牛込の実家に、たどり着きますが、長女の寿美子(6歳)は大やけどを負い、火傷が化膿して骨が見えるほどの重症で、皮膚移植も不可能、命を取り留めただけでも奇跡でした。

みつ(27歳)は信雄を産んでから患いがちだったところにに震災の疲れと、大川で水を飲んだせいで下痢がひどく、寝たきりになってしまいます。
一方糸女(74歳)は川舟に助けられ、これも奇跡的に亀戸の親戚筋に、古くからの55歳の女中おこうと逃げ延びました。糸女も早産のせいか生まれつき虚弱で、その上幼い頃疱瘡にかかり、20歳の頃には肺結核にもかかり、治るのに20年以上病みつづけ、晩年もゴホゴホと咳をよくしていました。震災前には結核も再発して、その上乳がんを宣告されていました。震災後、その癌がだんだん重くなってきて、いよいよ肌を破って露出し始めてきました。      
ついていたおこうも、罹災中飲んだ汚水のせいかひどい下痢で苦しみました。このおこうは、養子として飛び込んできた繁俊に同情を寄せ、糸女への対し方とか生活の上での細々したことをいろいろ親切に教え、気を配ってくれた人でした。
こんな状況で、一面焼け野原で市電もなく、自転車に乗れない繁俊は、まず午前中牛込のみつの実家から寿美子を連れて小石川の火傷の専門医へ行き、牛込に戻り、また歩いて亀戸の糸女の機嫌伺いと乳がんの手当てとおこうの看病、翌朝早く起きてまた歩いて牛込に戻り、寿美子を病院へという日課でした。1日何時間歩いたことでしょう。
おこうの病が重くなってからは下の世話まで繁俊がしました。おこうはとうとう治らず、この亀戸の家で亡くなりましたが、最後まで繁俊の看護に涙を流して感謝し、手を合わせながら息を引き取ったといいます。
 
糸女の周辺については老女中おこう、芝居界については其水。この2人を頼りに、周囲の白眼視と嘲笑に耐え、何とかその生活に馴染もうと努めていましたが、その2人がなくなり、そのうえ精神的な支えでもあった、信州の父も失いました。そして行方不明になった長男も亡くなったことを認めないわけにはいきません。
焦土を離れて、とりあえず渋谷の宇田川に貸家を見つけ、10月半ばから2年あまり、そこで暮らします。桜横丁と名前は美しいのですが、もともと墓地だったところを住宅地にした(後でわかった)、じめじめした場所でした。水道が引けていると言うので決めましたが実は共同井戸でした。
やけどを負った寿美子と宇田川の家で。
 

3ヶ月前に出来上がったばかりの本所の貸家も燃え、敷金を返すのも大変で、友人たちの好意で「新青年」「幼年の友」などに物語を書き生計を立てます。 

罹災から4ヶ月後の大正13年の正月は、何もない寂しいものでした。糸女のために羽二重の夜具、羽根布団などを買い揃え、看病に明け暮れました。気むずかしい糸女は繁俊しか寄せ付けず、癌腫のガーゼの取り替え消毒、アネステジン軟膏張り替え、ガーゼと包帯(10メートル)の洗濯、吸入、入浴の世話など、大変な毎日が続きます。
そんな中、2月には春陽堂から黙阿弥全集の話がもたらされて、大阪から台本を茶箱10杯分買い集めて、編纂を始めることができました。これは全28巻で7月から毎月1巻ずつ出版されることになり、黙阿弥のおかげで図らずも生活の安定を見ました。
が、新劇の演出や女優養成所の主事など本来やりたかった仕事は、糸女の意向で帝国劇場の復興を待たず辞めることになります。黙阿弥の後継者が歌舞伎の他の仕事をするのは竹柴一門の狂言作者に示しがつかないと言う理由です。繁俊の意に沿わない事でしたが、養子として義理ある親の意見には逆らえません。このときの決定が以後の繁俊の生きる世界を決めたようにみえます。
3月には坪内逍遙の児童劇の演出助手を頼まれますが、その台本の書き直し、清書など糸女の看病で遅れがちで、字も急いで書くので読みづらく申し訳ないという、逍遙への手紙が残っています。
逍遙はよく気がつき優しい善意の人ですが、とにかく手一杯仕事を持っていて、次から次へとせっかちに繁俊に指示が来ます。敬愛する恩師のためこれも精一杯こなさなければなりませんでした。

7月から10月の3ヶ月、糸女は小田原の酒匂の松濤園に療養に行きますが、この間もご機嫌伺いと看病のために繁俊は13回も通います。
その間に夫婦で出した手紙の数々です。近況報告のほかに「明け方は少しは涼しくなったので、あのどてらは夜必ず蚊帳の中に入れ、足の方へ置きなさること肝要、寝冷えをいたす事は禁物に御座候 いずれまた、お母上様」と、きめ細かい配慮を。
逍遙からは「10月6日の大隈会館での打ち合わせの会においでいただくと好都合だが、おふくろさんの方へおいでの由遺憾に候、いずれ後にてまた申し入れ候」というような手紙がきます。恩師と義母の板挟みだったわけです。

一方、留守を預かるみつはつわりに加えてひどい風邪をひき寿美子も高熱。その寿美子もまだ火傷が治っていない始末。行方不明の信雄のことも思い出されて、体が悪くて人並みに動けずほとほとこの世が嫌になって、安らかに眠れる方法は無いものかと考えあぐねる毎日でした。
小田原の療養から帰ってきた糸女は、乳がんが移転し始めて首にも背中にもたくさん「ぐりぐり」ができて、凝ったり痛んだりし始め、麻酔注射なしで手術をしました。しかし悪くなる一方で、死期を悟った糸女は、自分が得度した寺の僧侶に来ていただき、お経を上げてもらい、その4時間後には安らかに永眠しました。75歳でした。
亡くなった11月24日は、奇しくも明治44年繁俊が養子になった日で、満13年の親子の縁でした。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)