切抜帳7より③(1971-1972)/エッセイなど

切抜帳7で一番華やかな誌面から…。「婦人倶楽部」1972年6月号、「妻のボーイフレンド」。藤村志保さんのボーイフレンドとして紹介されています。

「私が女子大の聴講生だったときの先生です。いわゆる胸をときめかせた、あこがれの君でした。当時は二人とも独身、私もまだ女優になっていないときでした。私の青春時代をやさしく見守ってくださいました。おつき合いを始めて、もう12、3年になりますが、主人公認の唯一人のボーイフレンドです」。登志夫にとって名誉であり、光栄なので全文を引用してみました。写真のキャプションに、登志夫が自分の結婚式のとき志保さんにウィンクした、というエピソードも。これは色々な女の人によくやった好意と親しみの表現でした…。

藤村志保さんは、この時から41年後、登志夫が亡くなった時は、すぐに顔を見に来てくださり、葬儀では弔辞を読んでくださいました。最後まで親しい関係は変わらず、登志夫亡き後も良子と電話で近況をお話する仲です。

こちらは「青少年文化」1971年8月号。「これだけは見せておきたい~そのみちの五人に訊く」。おすすめの歌舞伎演目を、利倉幸一、服部幸雄、野口達二、戸板康二の各氏とともに。

こちらは「東洋インキニュース」の「美女特集」への寄稿。古今東西の美女、歌舞伎の美女の話のあと、自らの美女の条件として、「まず血のかよったイキのいい人間」と言っています。鮨屋のつけ台で握りを箸でぼろぼろにして食した女性に対して「血が沈黙してしまった」とのこと…。そういえば、登志夫と鮨屋に行って箸を使って食べようとしたら、「手で食えよ」、とあきれた感じに言われた娘がいますが、こういう思い出と重ねていたのか、と思い当たるわけです。

「ほるぷ新聞」の「本との出会い」には武井武夫の他、楠山正雄文・小村雪岱絵の「源氏と平家」の絵本のことが書いてあります。これはぜひ見てみたい…。と思ったら、ちゃんとありました。

登志夫の子供時代のたくさんの本!
その中の、楠山正雄文・小村雪岱絵の「源氏と平家」。
こちらが骨と皮ばかりの俊寛の絵。
こちらは武井武雄。なんと可愛いことでしょう。

1971年10月11日の毎日新聞「茶の間」欄。「白い空」として、当時深刻な社会問題だった公害による大気汚染について。

まだ成城に住んでいた時です。長女の小学校入学式の日、各自ござを持ってくるように(ブルーシートのようなものです)言われました。光化学スモッグで倒れた時、廊下に敷いて寝かせるためだそうです。成城の家は武蔵野台地の端にあり、京浜工業地帯からのスモッグが直接流れ着くのです。病弱の登志夫の母みつも「この頃は深呼吸をすると咳が出ます。子供は小さい時が体に大事ですから…」と心配してくれました。さらに次女の「空は白でしょ」の発言。このあと、本格的に湘南地方に引っ越し先を探し、翌年には逗子へ移転することになりました。

最近朝日新聞にその頃の記事が出ましたので、参考に…。

翌年1月の「言論人」のコラム。肝心のタイトル「鐘といのち」のはずが、「鐘のいのち」と間違えられてしまい、残念…。日本の人命軽視について、三年前の訪欧歌舞伎の時の道成寺における鐘を下げるタイミングの事故を引き合いに出して語っています。

「ハンターのめくら撃ち頻発、巡査のピストル暴発、ゲバ学生同士の殺傷沙汰、無関係の民衆への暴行、水俣病はじめ公害病への業界や政府の不誠実ぶり、ひき逃げ八つ当たりの酔払い自動車、無知無謀な雪山遭難続出にいたってはもはや論外の馬鹿らしさだ。みな人命軽視、はき違えた自由、甘ったれの駄々っ子根性のバリエーションにすぎぬ」とたくさんの具体例に続き、

「日本にとって、敗戦あるいは戦争そのものの、最大の遺訓は、人のいのちの尊さではなかったのか」。

さらに、「暴走マイカーからは免許を剥奪すべし、暴発ハンターは無人島へ行って撃ち合うがよし」。登志夫は車の運転はしませんでしたし、遊園地に行ってもジェットコースターなど重力に極端に逆らうものには近寄りませんでした。命を失ったあとでは、いくら慰謝料をもらっても取り返しがつきませんので、危うきには近づかない、自分がしっかりする、日々をそういう風に暮らしました。

1972年3月26日「上毛新聞」、「亡父の建碑に感謝 きょうゆかりの伊香保で除幕」。繁俊の碑が、伊香保に建てられたのにあたり、登志夫は「貴県の芸能協会と演劇研究会二十周年の記念事業に建碑していただくほどの貢献が、あったのだろうかと、そのほうが心がかりだったのです」とこのお話をお受けしていいかどうか迷ったことを明かしています。

それから今年で50年…。こういうものは、なくなる時にはお知らせはこないようです。今はなき碑となって何年なのでしょうか。ホテルの建て替え後、この石碑が見当たらなかったと言う噂を聞きました。この頃のホテル高源。


余談ですが、江東区、清澄白河近くの「高橋」という小名木川にかかる橋の森下寄りに、かつて「芝翫河岸」の案内があり、登志夫が撰文を書きましたが、それも今はありません。


現在は木に埋もれて、、。教育委員会名の看板に変わっています。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)