切抜帳7より②(1971-1972)/包丁・料理・食べ物関係記事
切抜帳6でご紹介した大竹省二さんとの記事で、包丁関係での新聞デビューをした登志夫。その後立て続けにその関係の仕事(?)が。
料理関係の依頼には、波があったそうです。一度来ると続けてやってきて、また忘れたころに波がやってくる、そんなふうだったそうです。本業ではないので、登志夫は気楽に、楽しんでお受けしていました。
こちらは1971(昭和46)年4月「味の味」に寄せたエッセイ。上の段、「消化器幹線終着駅の手術」とは、痔の手術なのですが、当時はこんな言い方で通じたのでしょうか。「みかん一個の中の一袋」しか食べさせてもらえないって…少なすぎませんか。
こちらは同年8月読売新聞、包丁研ぎを主婦に勧めている記事です。ここにコメントを寄せています。「包丁を使ったあとは、よごれをとり、よく水をふきとり、手製のボール紙のサックに入れて大事に書斎にしまっておく。自分の包丁は奥さんといえども使わせないのである。仕事に疲れると、砥石に向い、一人静かに包丁をとぐ、無上の楽しみだという」。
こちらは同年8月1日の読売新聞日曜版「サンデーコック」のコーナー。まだ成城の家に住んでいたころの台所で、良子と。
写真帳の中に、この日の資料がありましたので、お目にかけます。
後には出来上がり図を書くような習慣はなかったのですが、この日は取材があるので、特別こんな風にしようと書いたのでしょう。
ここの空いているところに、上の図のように他のものを入れたのでしょう。
こちらは同年10月号「NHKきょうの料理」の「自慢料理」。7月のNHKでの放送に出演したのをまとめたもの。「酒は道づれ」によると、
「(大竹省二さんとの記事が)目にとまったのだろう。おなじ年の七月にNHKの家庭部から頼まれて、『わが家の自慢料理』なるテレビ番組に出演した。二十分間で石がれいのふぐ造りとうしお汁、じゃが芋と玉ねぎのサラダ、和風ビフテキと、簡単なものばかりではあるが、四種類、愛用の包丁をつかって熱演」とあります。
カレイのお造りには、「白浪づくり」と黙阿弥に因んだ名をつけ、あとは「和風ビフテキ」、これは新宿歌舞伎町にいまもある居酒屋「三日月」で仕込んだもの。繁俊も生前これを気に入っており、その後もうちではビフテキというとこれでした。登志夫がフライパンに火を入れて、それが燃え上がるのがいつもスリリングだったものです。
「アルプス風サラダ」についても、「酒は道づれ」に、「(成城の)家には池之端を焼け出された二代目左團次の未亡人高橋登美さんや、狂言作者の竹柴光葉夫妻が同居していた。登美女は往年の名妓だったそうだが、たいへんつましい人で、『さつまいもは厚切にしてふかしてから揚げると油が倹約だよ』と教えてくれた。じゃが芋のベーコン炒めや、じゃが芋と玉ねぎのサラダなども。私がNHKテレビの料理番組でやったのは、このサラダである」とあります。下の記事には「ご飯の代用として好適」とありますが、やはり戦後すぐ、本当にご飯の代わりに食べたということなのでしょう。
こちらは翌年1972(昭和47)年の、同じく「NHKきょうの料理」4月号~6月号までの食にまつわる寄稿記事。糸女から繁俊、みつに受け継がれた「ゆり根の含め煮」や「卯の花とマグロ」「ぜんまい煮つけ」など、幕末からの市井の味として書いています。
こちらは「髪結新三」の初ガツオのこと。
そして梅酢と梅干。戦時中の食の思い出も書いています。ここに書いてある、「夏場の弁当には梅干を入れれば腐りにくい」ということもよく言われました。登志夫からはそういう生活の知識をたくさん教わりました。
同年10月の朝日新聞に4回連載で。こちらは、行きつけ、おすすめのお店の料理を紹介するコーナーです。赤坂の「合鴨のロース焼」800円。良子の実家のあった門前仲町に今もある「伊勢屋」の「焼き団子」25円。
伊勢屋の団子ですが、今でもお不動様の入り口で流行っています。朝日新聞の7月8日付のコラムに、男の方がこれが好物と言う記事が載っていました。そこには5本700円とありますので、一本140円、上の記事では1本25円とあります。50年も経っている割には安い気がします。電話番号も変わっていないのも見事です。
こちらの二枚の画像は見開きです。同年「メディカルビュー」という雑誌、「世界の酒」にソ連の酒や食べ物について、訪ソ公演のときの思い出とともに。
この、二枚目に書かれている「ベテラン芸術家の家」という施設は、ソ連で歌舞伎団一行が訪問した「もと俳優、あるいは装置家、舞踊家、歌手などの老人ホーム」なのですが、数年前に流行った倉本聰の「やすらぎの郷」のような話が50年以上も前にあったのですね。ソ連では国家として芸術家が尊重されているのですね。
以上、切抜帳から、たべもの関係をピックアップしてみました。
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