弾丸講演旅行③マインツ、ボン、ミュンヘン→帰国へ。

弾丸講演ツアーの続きです。1971(昭和46)年4月3日午前中にウィーンを発ち、飛行機でフランクフルトへ。それから列車でマインツという町へ。このブログで昨年の11月21日に、訪欧歌舞伎公演(1965年)の前に単独でユネスコ研究員として旅していた時に立ち寄ったと紹介した町です。その時も、その旅の途中で知り合った家族にわざわざ会い行き、泊まったりしたのですが、今回もこの多忙な中、わざわざ立ち寄りました。この家の、可愛い男の子が登志夫のお気に入りで、彼が成長した姿を見たかったようです。「Rolfは背高く、うす青のsuits、金髪が長く、すばらしい好青年になっていた。但し、英語は大変下手でききとれぬ。この子は前もそう思ったが、言葉に難あり。このくらいのハンサムなら俳優でもやれるのに、二物を与えぬもの」、などと記しています。この家族に暖かく歓迎を受け、若い姉弟たちと一日町を見て歩き、酒を飲みに行きました。

翌4日、朝から皆で登志夫の持参したシャンペンを飲み、また姉弟と美術館へ。お昼には「また5年後に」と家族と別れマインツを発ち、ボンへ。夜は大使公邸で日本食をいただきました。ライン川の船の汽笛や水音を聞きながらよく寝ました。

翌5日、「学生あがり案内、大変たよりなし」という現地の係の日本人の案内でゾーリンゲンで買い物、夕方からは「brainがひどく悪い人」という日本人とともにレクチャーへ。その後は別の日本人の案内でキャバレー、バー二軒。

翌6日はミュンヘンへ。到着後劇場へ。歌舞伎公演が可能か見学、調査しています。

翌7日も、ドイツ博物館のステージを見学。キャパは2000人だが、コンサートホールで、これは歌舞伎に向かないと判断しています。夜は日独協会の会館で講演。「おどろいたのは、東大時代の森永晴彦夫妻が現れたこと」とあります。

Wikipediaによりますと、この方は、

「1946年東京大学理学部物理学科卒業。学生時代は第2次世界大戦中で、東京大学物理学教室在学のまま理化学研究所や島田の海軍技術研究所で研究に従事。海軍では当初、陸軍の原爆開発に対抗して殺人光線の開発に重心を置いていたが、その渦中にあった。
1946年に東京大学卒業後、嵯峨根遼吉の研究室の研究嘱託になる。1951年からアイオワ州立大学、パデュー大学、ルンド大学で研究した。1957年から東北大学助教授、1960年から東京大学助教授、教授。1968年から1991年ミュンヘン工科大学教授を務めた。1971年「インビームスペクトロスコピーの創出と原子核構造の研究」で仁科記念賞を受賞した。著書に「原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ」、訳書に「パーキンソンの法則」など。原子力発電については、長年肯定的な姿勢をとっていたが、福島第一原発事故(2011年3月11日)以降は、脱原発に傾いている。核武装には、一貫して反対した」

という方だそうです。登志夫よりふたつ年上だったようですが、おそらく同級で、亡くなったのは登志夫の五年後、95歳でした。ミュンヘン大学の教授になられて居住されていたのですね。講演の後は、関係者も含め、一緒に飲みました。

翌8日、いよいよ東京へ。コペンハーゲンで乗り換え、アンカレッジで一度おり、睡眠不足で鼻血を出しながら、ミュンヘンから22時間後、午前9時に到着しました。2冊の講演旅行手帳は、前回のユネスコの時の旅に比べて期間が短いこともありますが、現地での送り迎え、連絡など、だいぶ楽になっていたようです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)