弾丸講演旅行②オスロから、ロンドン、パリ、ミラノ、ローマ、ウィーン

昭和46(1971)年、3月25日、オスロからロンドンへ移動します。移動にトラブルはなく、前回のユネスコ関係の旅の時の苦労に比べると「全く何のトラブルもなく、ホテルへ。こんな旅ははじめてである」と記しています。この日は関係者と会談、会食。食後のクラブでは「いい女ふたり」。

翌26日、朝日新聞の原稿下書きを済ませ、サドラーズウェルズ劇場へ。「歌舞伎公演に適否を調べる」。この劇場で歌舞伎公演をするための交渉、契約などについて先方から話を聞いています。

そのあとは登志夫大好きなロンドン塔へ。

夕方から朝日の原稿(イプセンのこと)の上を清書。それから着替えてロンドン大学での講演に。ちなみに講演は、ずっと英語です。晩はローストビーフ。それから朝日新聞ヨーロッパ総局長のお宅へ行き、原稿の「中」と「下」はパリから送ることなどを決め、二時半にホテルへ。

翌27日、9時半にホテルを発ち、パリへ。夜に中華レストランで講演の打ち合わせなど。また二時半にホテルへ。

翌28日、関係者夫婦とドライブ、パリを一望できるマルメゾンの城へ、羊のランチをセーヌの畔で。朝日の原稿を書き、夜は在コンゴ大使などと会食。

翌29日、午前から昼は用談、会食。午後はサンケイの原稿を済ませ、夜は大使館で講演。下の絵はがきは講演の前に良子へ書いたものです。


翌30日は朝8時半にホテルを発ち、ミラノへ。ここでは連絡不行き届きでピッコロシアターの要人に会えず、夜に芝居だけ見ることに。

31日、「ようやく後半戦の感、さすがにぐっと疲れが出る。背中が少し痛む」。この日はミラノからローマへ移動。「立派なるホテル」へ移動し、「入浴、いびきかいて寝る」とあります。夕方、講演。ここでは登志夫の英語を、通訳がイタリア語に変換しました。通訳とうまく気が合い成功したと記しています。夕食をはさみ、歌舞伎映像や講演、質問と続き、終わったのは夜中の12時でした。

4月1日、「昨日のレクチャーはよかったし、どうやら心配した体調も今のところ異常なきようにて、一晩ぐっすり。ここで回復できた感じ。やはりパリが一番疲れる。パリそのものの個人主義が大使館員にもうつっていて頼りなく、無関心。どうにも好きになれぬ」と、これまでの半月の旅を振り返ります。この日は起きたらすぐに空港へ、ウィーンへ移動です。翌日の講演打合せを現地の大使館の担当者らと打合せ、会食は鴨料理。それから古くからある(1100年頃からとか…!)「アングラバー」なるところへ行き、2時にホテルへ。疲れていても必ず現地の盛り場を外さないところはさすがです。

翌2日、ウィーン大学で11時半からと18時からの講演。夜はハンガリー料理を食べ、現地の関係者とドライブし、昨夜の盛り場を通り「street girlの林立をみる」…。

ということで、ウィーンでの講演もこなし、翌日からはドイツへ移動です。こちらは手帳1の末尾にまとめてあった行程表です。


ウィーン大学にて、キンダーマン博士と。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)