切抜帳6より/弾丸講演旅行①ノルウェーへの旅

昭和46年3月13日、登志夫(46歳)は単身「外務省および日本文化財団の派遣でノルウェー、ロンドン、パリ、ローマ、ウィーン、ケルン、ミュンヘンを講演旅行」し、4月9日に帰国します。

東京からオスロまでは、、午前11時半に羽田を発ち、現地時間3時ごろマニラに。3時半にマニラを発ち、バンコク、カルカッタを経由し、現地時間午後10時45分カラチへ。ここまで東京から約15時間で、「往路を半分まで来た」と手帳に書いています。それからテヘラン、ローマ、チューリッヒ、フランクフルト。ここまで30時間。それから飛行機をエアオスロに乗り換えて現地時間の午後1時に到着。現在もオスロには直行便はなく、コペンハーゲン、ワルシャワ、ヘルシンキで乗り継ぎが必要で12時間半~15時間40分かかるようです。これがこの時の記録の手帳です。

到着したらまずは妻に手紙。同居の母への手紙も同封するのを怠らず。
到着した翌日は午前中から用件をこなします。財団から預かった手紙を国立劇場の要人に渡したり、日本でのイプセン展に出品するものについて話したり。下のメモがそれですが、右ページには、イプセンが61歳くらいの時に書いたラブレターのことが書いてあります。まるで須磨子と抱月のようだとも。

次の見開きには、イプセンの自筆原稿や絵と、黙阿弥逍遙の几帳面さや絵のうまさと似ていると書いています。

この日の夜は早速劇場でイプセンの「ヘッダ・カブラ-」を観劇。登志夫も絵がうまかったので、ささっとその日の舞台を記録しています。

翌日はイプセンの別荘などを見るため列車でシェーンという町へ。ここまでのことは下の連載に書いています。この連載は朝日新聞に三回連載で海外から寄稿しています。

その翌日18日は、早起きして講演の「能と歌舞伎」の英文原稿づくり。昼から大使館で大使に会い、関係者とムンク美術館を訪れ、夜はアンフィ・シアターでイプセンの「帰郷」を見ます。このことは、この下の連載、に書いてあります。この年はノルウェー国立劇団からの来日公演が予定されていたため、登志夫はその件で色々仕事をしたわけです。

翌19日にはオスロ―大学で「能と歌舞伎」講演。ここでやっと夜は現地の若い舞台監督たちと盛り場をはしごして午前二時まで飲んで楽しみました。翌20日は、飛行機でベルゲンへ発ちます。到着早々、フィヨルドや、自然に圧倒されました。ベルゲンは、ノルウェーで最も古い劇場があった文化都市です。到着した日は案内の現地の女性と、ここ出身の作曲家グリークの家や墓を見学。夜は芝居、それからこの案内の女性の誘いで彼女の友人の女性劇評論家の家へ。疲れていた登志夫も、この女性やそこの娘さんがきれいだったようで。ここでは三島由紀夫の切腹についてや歌舞伎について色々聞かれたようです。興が乗り、お酒を飲んで夜中の12時まで。

翌21日は案内の女性と、1919年に建てられ、劇場としては使われず、ミュージアムになっていた場所へ。イプセン自筆の衣裳デザイン画やベルゲン時代の「日給のメモ」。古い王宮を見学し、案内の女性の自宅でもてなしを受けます。

ベルゲンからのワイドな絵葉書。


翌22日はオスロに戻り、演劇学校にて講演、夜は芝居。

翌23日は、また演劇学校で講演、「リア王」の稽古見学、人と会って、美術館や、夜は芝居。

翌24日は、現地の新聞記者がホテルに訪ねてきて話し、午後は国立劇場のレセプション、それから上の朝日新聞の連載の原稿準備しましたが、筆が進まず、

翌25日、4時に起きて朝日の原稿の下書きをすませます。そしてオスロを後にし、ロンドンへ移動しました。

こちらはオスロを離れる日に。



こちらはサンケイ新聞。これも帰国前、在外中に寄稿したものです。

こちらは京都新聞に5月12日、13日の二回連載。

さらに6月1日の京都新聞。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)