「宇都谷峠・余録」まんがと落語

前回のblog(2022.5.30)で、国立劇場「宇都谷峠」のプログラムの言葉をのせた通り、登志夫は1969年9月国立劇場で  黙阿弥作「宇都谷峠」の補綴演出をしました。最近見つけたその時のポスター(75×53センチ)です。黙阿弥の名と登志夫の名が並んでいます。
「通し狂言5幕12 場/観劇料:2000円、1800円、1000円、500円/開演時間:平日5時15分、日曜祝日1時、土曜日12時・5時15分」と書いてあります。
50年近く経った今年のお正月の歌舞伎公演の観劇料は12,000円から細かく等級がついて1番安いところで3,500円、時間は正午からでした。国立劇場が開場した頃は、仕事が終わってから誰でも見られるように5時15分という時間にしていたように覚えていますが。いろいろな事情で変わってきたのでしょう。

この年の11月の「 学燈 」(丸善k.k)に「宇都谷峠.余録」と言う文章を載せていますので、抜粋してご紹介します。
こちらは、昭和6(1931)年に出版された、今から91年前の、登志夫の子供時代の愛読書です。「武者修行 団子串助漫遊記」宮尾しげを作並びに画、と右から読みます。
「まだ小学校にも行かないころ、病弱だった私に父が買ってきた本の中にこの本があった。ちびっこ侍の串助が、東海道五十三次を武者修行して歩く話だが、宮尾さんはこれを書くために、2度も東海道を徒歩旅行をされたとのこと。私はこの本から羽衣伝説やらごまの灰という言葉やら、実に多くを学んだ。そのひとこまに丸子(芝居では鞠子)の宿から宇都谷峠にかけての、文弥殺しの一件があったのである。」
こちらは丸子(鞠子)の宿でとろろ汁に舌鼓の件。      
こちらは、殺しの場面。
宇都の谷峠へ助けに…。
「芝居では十兵衛が旧主のために、やむなくあんまの文弥を宇都谷峠で殺害して百両を奪う。その百両は文弥の姉が、座頭の位を取らせたさに身売りした金だった。が、漫画では文弥が串助に金包を取り返してもらって喜ぶーその重たい包みを押しいただく拍子にコツンと額にぶつけて、☆がとび出したところの絵が、それいらい頭から消えなかった。
子供ごころに文弥があわれで、いたく同情したためらしい。」
これは裏表紙です。
「ともあれ曾祖父の作などとは露知らぬそのころから、『宇都谷峠』はもっとも好きな芝居のひとつになった。」

登志夫は6歳の頃に読んだと書いていますが、ルビが振ってあるとはいえ、よく読めたと感心します。それ以上に頭から☆が出るのをずっと覚えていることもびっくりですし、この本を大切にとってあったことにも驚かされます。

同じ文章の中に“毛氈芝居”のことがあるので抜粋します。1969年の夏の話です。
「『宇都谷峠』は初代金原亭馬生の人情噺を黙阿弥が脚色したものだが、明治期、5代目菊五郎や初代右団次などが再三復演してはやったため、逆にその芝居が、今度は落語の中に取り入れられたようだ。
夏の一日、私は小菅和夫さんのお供をして池之端の古今亭今輔師を訪ねた。湯屋ですべって怪我をしたと片手に包帯を巻いていたが、元気な今輔さんは茶の間の卓で座談の合間に、話すともなく「毛氈芝居」のその部分を話して聞かせてくれた。
 
先代が亡くなって跡目を継いだ若殿様は、文教政策を推進するため、まず自ら芝居というものを見ようといい出し、三太夫がとめるのも聞かず役者を呼んで芝居をさせる。それが峠の殺し場だ。

演じすすんで十兵衛がついに哀れな文弥を切り殺すーと眼に涙を浮かべてみていた殿様は

「彼の者を召し取れッ」と命令し、十兵衛はたちまち縛られてしまう。殿は小姓から刀を取り、
「憎い奴め、手討ちにいたす」とかけ寄る。青くなった頭取が、「なるほど盲人を殺害いたしましたが、あれは芝居狂言にございますので」と言うと「芝居狂言とは余には解せぬ」

「なんと申し上げてよろしいやら、文弥は切り殺されましたが、毛氈で隠しましたので、あの通り舞台にはおりません。楽屋へまいりまして、十兵衛の身を案じております」

「なに、いったん死したる者が、毛氈によって、よみがえると申すか」

「ハイ、毛氈でかくしましたので」「フーム、左様か、、、三太夫、三太夫」

「何、御用でございます」

「余の先祖は、石橋山の合戦において、討死をいたしたとのう」

「御意にございます」

「その折に、毛氈はなかったか」

これがサゲである。」

この日、登志夫はいろいろ勉強できたようです。明治の三遊亭円右が5代目菊五郎の舞台からこの落語を作って、6代目菊五郎が円右を顧問にして5代目の古い型を聞いていたということもわかりました。
「餅は餅屋」か「餅は餅屋」かどちらが正しいか、ゆすりの種の煙草入れ「黒桟留」は、ポルトガル語の”サン・トメ”などなど…。


「宇都谷峠、余録」は続きます。
「全体として、見せ場は見せ場でたっぷりやり、そのうえに善人同士の文弥と十兵衛の、因果の人間悲劇を、金と義理と退廃の幕末という世界のなかにえがきたいーというのが私の意図であった。
何日めかに、はじめて身体の弱い老母を国立劇場へつれて行った。菊吉を見ている母だが、芝居についてはともかく、あの広いロビーや外観をつくづくみて、「見せてやりたかったねぇ」とつぶやいた。母の手提げの中には、この劇場の設立に一臂の努力をささげながら、ついに1度も見ずに死んだ父(繁俊)の小さな写真が、入っていたのである。」
このときのプログラムの扉絵(横尾忠則画)
プログラム掲載の、6代目菊五郎と先代吉右衛門のいい写真ですね。登志夫の母みつが、若い頃見た舞台でしょうか。
これは、30年後の1999年6月に横尾さんから送られてきた「横尾忠則マガジン.vol.2」です。もちろん、当時のプログラムに登志夫の丸囲みの写真が入っていたわけではなく、これは登志夫が文章を寄せたからで、30年後の登志夫の顔です。
横尾さんには成城のお隣住まいのよしみもあり、この時初めてプログラムの扉絵をお願いしました。その後単行本「日本のハムレット」の装丁もしていただき、これは自分の本の中で最も(美麗)なるもの、とここに書いています。


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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)