切抜帳6より/歌舞伎公演プログラム

切抜帳6は、昭和44年から46年まで。

こちらは44年9月歌舞伎座公演。夜の部は『六歌仙』と『女殺油地獄』。延若の与兵衛、芝翫のお吉です。ここでは「『油地獄』と現代」という題で寄せています。冒頭、「テレビで十代の少年たちが、現代の生きかたを論じるのをみた。既成の社会規範よりも、自分の感覚に忠実に生きるというのが、多数意見だった。『感覚人間』とか『感覚もまた論理だ』といったことばも、とびだした。」として、この作品はこの「感覚人間」を鮮烈にとらえた、と書いています。この時の15歳は、今の72歳ですね…。どの時代にもいる与兵衛のような甘やかされた若者と、お吉の心の隙の普遍性について。

こちらは10月の御園座プログラム。文末に「44年5月歌舞伎座番付より転載」とありますが、正しくは4月です。『本朝廿四孝』の上演にあたり、「奥庭と諏訪の七不思議」という題で。5月の歌舞伎座の配役は歌右衛門の八重垣、左團次の勝頼、延若の謙信、鴈治郎の濡衣。御園座では、芝翫の八重垣、鴈治郎の勝頼、三津五郎の謙信、歌右衛門の濡衣。この時は、芝翫襲名披露でした。

「愛の力の肯定が、人間謳歌の庶民感覚が、ここにある。中世とちがい、近世の浄瑠璃歌舞伎では、霊験奇瑞は人生にとって密接ではあるが、二次的なものだ。十種香や奥庭の様式美、七不思議をみごとに生かした妖麗ーこれも人間の愛と美への讃・渇仰の、絢爛たる発露にほかならないのである。」と、この芝居の鑑賞ポイントをアドバイス。

こちらは、9月の国立劇場、『蔦紅葉宇都谷峠』上演の際、「補綴・演出にあたって」。この時のことについては、登志夫はその後色々なところに書きましたが、「演劇界」に連載し、のちに「背中の背中」に収録している「『宇都谷峠』のことなど~国立劇場四十周年に寄せて」から引用します。

「国立劇場四十年の間に、私がかかわった上演で、最も記憶に残るのは、1969年9月に補綴・演出した『宇都谷峠』である。話題の一つは、先代勘三郎と先代幸四郎が、久しぶりに共演することだった。ライバル同士、しかも長い間東宝に出ていた幸四郎が、松竹歌舞伎に復帰した最初の、共演ならぬ競演だったからである。私としても、黙阿弥の中でも一番好きな作だし、渾身の努力で当った。特に初演いらい殆ど出たことのない『芝片門前文弥内』の場。後に按摩文弥は、殺されるのだが、その百両は姉が身を売って作ってくれた金だ。だからこそ文弥は、殺されても貸せなかったのだ。『文弥内』はその姉の身売りの場である。国立劇場の建前である通し狂言としても、ここを省くわけにはいかない。思い切って私はこの場で、愁嘆場特有の竹本を全部カットした。ここがチョボ入りで重くなっては、後の『鞠子の宿』『峠の殺し』『伊丹屋のゆすり』という見せ場が利かなくなるからである。役者はやり難いだろう。文弥の老母役の老優が、陰で不満をもらすのも、知っていた。が、構わず私はカットを提案した。そのとき主役文弥をやる勘三郎が意外にも、一言の苦情もいわず即座に、『ええ、結構です』と賛同したのには、感激もし、驚きもしたものだ。果して結果は両雄火花を散らす、緊密華麗な舞台となった。開場いらい最初の黒字公演だったとも、後できいた。」

演出の意図がどうあれ、芝居は観た人が面白いかどうかがすべて…。登志夫44歳、筋書の言葉にも大舞台に望む緊張感が感じられます。下の寄稿に、「じつは私がこの作に深い関心と愛着を持ったのは、小学校へ上がらない昭和初年、宮尾しげを氏の漫画『団子串助漫遊記』の中で文弥殺しの場を見て以来などである」という一文があります。それについては、次回実物を掲載したいと思います。

こちらは昭和45年3月国立劇場の青年歌舞伎月公演。『女殺油地獄』と『勧進帳』。登志夫は「近松の眼」という題で書いています。配役は孝夫の与兵衛、ひと江(徳三郎)のお吉、与兵衛父が先代仁左衛門、兄が今の我當、おかちを秀太郎、と松嶋屋ファミリーが勢ぞろいしています。以下、この寄稿からの引用です。

「人間関係のするどさ的確さと、その描写のリアリティーは、近松の全作品をつらぬいている。そこに彼の作の現代劇生命、いいかえればほんとうの古典的価値があるといえるだろう。」

「それまでの浄瑠璃~いわゆる古浄瑠璃時代は、もっと単純な英雄譚や、神や仏の超自然力をモチーフとする霊験ものが一般で、アクションのおもしろさと物語り性を主とする叙事詩であった。」

「単純な叙事詩から劇詩へ、超現実的な英雄・霊験譚から近世市民悲劇ないし人間悲劇へ~それが近松のはたした大きな演劇革新だった。が、もうひとつ加えるべきは、その詞章のうつくしさである。(略)」

「(近松が)なぜ武士から作者に転じたのか、どこでどう修業したのか、その他、私的生涯は未詳。シェークスピアとおなじく、ただその不朽の作品によって、生きつづけているのである。」

こちらは昭和45年4月歌舞伎座。歌右衛門が53歳、「道成寺」上演の際の寄稿です。「いまや円熟の絶頂にあるその舞台ーこれこそかけ値なく、当代の至宝といっていいだろう。」

こちらは同じ年の7月歌舞伎座。(切抜帳には、6月とありますが、上演は7月ですので、間違いだと思われます)。勘彌の清心に、梅幸の十六夜。「大川の水音」というタイトルで。

「ロンドンのテムズ。パリのセーヌ。そして大江戸八百八町は、隅田川であった。清心とともに遊山船のさわぎ唄をきき、大川の水音に耳澄ますとき、私は、この川をこよなく愛した江戸の人々の情感が脈打ってよみがえってくるのを感じるのである。」

晩年の登志夫は、大川の目の前に暮らしました。散歩のひとやすみ、新大橋の上で。

こちらは、上と同じ月(6~7月)松竹の巡業公演のプログラム。記録によると、この年の松竹大歌舞伎特別地方公演は、4回目。一回目は2年前の昭和42年に行われました。コロナのため、ここ数年中止でしたが、今年は開催予定のようです。この寄稿は、地方用のためか、平仮名が多いのが目立ちます。

こちらは、同じ年の11月歌舞伎座顔見世。勘三郎の道玄と梅吉、勘彌の松蔵、多賀之丞のお兼、その他加賀鳶にいまの猿翁、菊五郎、故辰之助・團十郎たちが出ていました。登志夫は、ここには、「加賀鳶」に道玄と梅吉という二役についての五代目菊五郎と黙阿弥との秘話が書かれています。

こちらは同じ年、12月の東横劇場。「忠臣蔵」の通しを当時の若手で。。登志夫は「おかると階子」というタイトルで、明治の演劇改良運動によって、「猥褻」な台詞、場面は悪いものだと廃されたことを書いています。

こちらは翌昭和46年3月国立劇場「弁天小僧」の通し上演に寄せて。通しといっても、中幕に梅幸の「道成寺」が入る面白い形態です。五人男は、羽左衛門の駄右衛門、菊之助(現菊五郎)の弁天、薪水(現楽善)の南郷、先代権十郎の忠信利平、簑助(先代三津五郎)の赤星でした。

登志夫はこの作品の成り立ち秘話、黙阿弥が書いた浜松屋のモデルはどこだったかを、母みつの話から探っています。

「幕末から明治を生きた黙阿弥の世話物には、江戸から東京への庶民が息づいている。やや極端にいえば、当時の記録映画をもたない私たちにとって、黙阿弥の作、舞台こそは、生きた人間を知る唯一の手がかりともいえるのではなかろうか。」舞台をみて、当時の人々の生活を想像する…、これも歌舞伎を見る楽しみのひとつです。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)