切抜帳6より(昭和44~46年)

登志夫が44歳から46歳の切抜帳です。こちらは1969年10月27日読売新聞朝刊。「伝統芸術の生きる道」というテーマで、戸板康二氏との対談。新聞の企画として、このように世代の違う専門家が対談するというのは面白いですね。新聞社側の企画意図は、

「日本民族の財産ともいうべき伝統芸術を、われわれがどう受け取り、どう伝えてゆくかの問題は、これまでさまざまの機会に論じられてきた。かぶき、文楽、能、あるいは平曲や声明、さらに落語、講談、浪曲から郷土芸能まで…これらは戦争直後の混乱期をへて、現在それぞれの場所に落ち着いたように見えるが、現代生活とのかかわり合いと結びついて、各部門の生命の盛衰には微妙な変動が起こっている。

伝統芸術と言っても、古典芸能の場合、国家保護がありさえすればいいというものでもない。古美術のように博物館に収蔵しておくことは不可能である。(略)テレビ時代といわれる今日での伝統芸術の現状と問題点を、作家、演劇評論家の戸板康二氏と、早大文学部教授であり、評論と同時に実際に古典芸能の上演活動にもタッチしている河竹登志夫氏に語り合っていただいた。」

対談は歌舞伎のことばかりでなく、その他の芸能についても語り合っています。長いので、最後の結論だけピックアップしますと…

戸板「結論としては、平凡だけれども、みんながもっと伝統芸術に関心を持つということ。ジャーナリズムとか、学者とか、学校なんかで、こういうものに対する関心をもっと盛んにするべく努力する必要がある。あまり冷淡なんじゃないかな。」

河竹「大事なことは昔のすぐれた人の伝承していったあり方、精神を、もういっぺんふりかえってみることだ。前の人たちはけっしてそのまま保存しろとはいっていない。まずマスターしろ、それから自分の個性を、自分のハラから出さなければいけない、ということだ。伝統芸術の人たちがよくいう言葉に、皮、肉、表現ということがあるが、皮というのは表現ということで、皮だけとると、えらい違いが出てくる。その皮を生んでいる肉はなにか、精神はなにか、役柄の精神はなにかということを研究しなければいけない。型を保存するだけでなく、その研究があって、初めて、現代の人たちにもアピールするようなものになると思う。」

こちらは昭和45(1970)年、1月9日赤旗。「わたしと70年」。年頭の抱負のようなことを書いています。まだ45歳、「(人生50年というけれど、)黙阿弥は四十でやっと一本立ちになったのだし、近松も南北もイプセンも、後世にのこる仕事をするのは五十すぎだ~という例もある。かれらとひきくらべるのはおこがましいが、こっちも年季のいる商売ではおなじ、ここらでひとつ軌道修正でもするかな、と居直る気になった。」と言っています。50歳を超えて花開くには、それまでの積み重ねをちゃんとやってこられた人たちだな、と思いますが、登志夫は50代、60代に充実した仕事をするために、軌道修正しよう、という気持ちだったようです。

こちらは昭和45年8月6日の共同通信への寄稿。「名舞台25年」という企画のうちの一回です。ほかの回はまた別の方の担当のようで、連載ではありません。戦後歌舞伎座が新開場してから三か月後の3月に、当時海老蔵だった十一代目團十郎が光源氏を演じて『源氏物語』が上演された大ブームになったことを取り上げています。というのも、これを書いた年の2月に、戦後の源氏物語に出演した梅幸、松緑の子供たちの海老蔵・菊之助・辰之助(故・十二世團十郎、今の菊五郎、故辰之助)がそろって同じ『源氏物語』に出演したこともあったからでした。十一世團十郎はこの役で「海老さまブーム」を起こし大人気となり、若い客を開拓、新しい作品の可能性を広げ、「この作品抜きにしては戦後の、あるいは現代の歌舞伎は語れないといってもいいのである。」と締めくくっています。

それから30年後、平成12年になって、さらにこの子世代の新之助・菊之助・辰之助(いまの海老蔵・菊之助・松緑)がそろって『源氏物語』に出演しました。その時も劇場はまれに見る大盛況でした。登志夫は3世代の源氏物語を歌舞伎座で見たことになります。


さて、こちらは1月24日の朝日新聞日曜版「珍客来訪」。写真家の大竹省二さんと、包丁や料理のお話です。登志夫は後年もしばしば包丁や料理のことで新聞雑誌に登場しましたが、これはその最初でした。自分で作成した年譜にも、この記事について、「包丁趣味知られ原稿や取材放送などはじまる」としています。

「子供の頃の五月人形の影響か、どういうものか光りものが好きなんです。それもとぐのが…。宮本武蔵のように剣ならともかく包丁じゃねえ(笑い)。しかし、うるさい女房、子供を遮断しましてね、深夜ひとり包丁をとぐ気分というのはなんともいえないよいものですな。」

この発言には家族は笑えない部分もあります。男同士の料理談義ということで、女の料理をクリエイティブさに欠けるという方向にもっていき、仲間意識を高めているのを感じます。現代なら編集でカットされる部分です。大竹さんは、アジをブランデーにつけこんで、砂糖醤油で焼くというオリジナル料理があると話していますが、これには登志夫は「おいしいですか?」と懐疑的です。おいしくなさそう、と思ったのでしょう…。この写真は、先日このブログで紹介した成城の家の、改装した台所です。

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演劇研究家・河竹登志夫(1924-2013)、登志夫の父・河竹繁俊(1889-1967)、曽祖父の河竹黙阿弥(1816-1893)     江戸から平成に続いた河竹家三人を紹介するサイトです。(http//www.kawatake.online) (※登志夫の著作権は、日本文藝家協会に全面委託しています。写真・画像等の無断転載はご遠慮願います。)